2011年6月27日月曜日

やらなかった後悔よりも、やった後悔。

遠藤哲郎。

踊るSE。

小学生中学生のときは地味。
高校も地味。入学直後の実力テストで学年ブービー。

卒業後2年間浪人名義で寝て過ごす。東京のコンピュータ専門学校でプログラミングを学ぶ。地味な小企業入社。愉快な先輩達と意外とマジメに働くがプロジェクトの頓挫で嫌気がさし3年で退社。

ワーホリでカナダはトロントに行く予定をたてたがSARSのせいでオタワに行く。
運良くいい人達と出会ったおかげでそれなり楽しく過ごす。
ガイドやったり真冬(-10度以下)に外でメイプルシロップを売る。だから寒さガマン自慢はウザイくらいする。

帰ってきて1年半ほどニートをしたあと上京しまたエンジニアとして働く。
カナダ時代のBBQが恋しくなり友達を集めてBBQだのカレー会などを始める。今でも定期的にやる。
会社が傾いたのでまた辞める。

2ヶ月ヨーロッパに旅行に行きヴィーゲラン公園とスウェーデンのコンビニの店員の愛の深さに感動する。
帰ってきてから仕事もせずにペアダンスに明け暮れる。懲りずにエンジニアに再就職。英会話学校では宴会屋扱いを受ける。今に至る。


‥‥外国へ旅に出始めたきっかけ、とは。

「外国に行ったのは高校時代にロックに出会い、
Metallicaの『Master of Puppets』を聞き世界の広さを知る。
日本クソとか言う、中二病を乗り越えたことでいろいろな価値観を受け入れ、いろんな価値観をもった人に会いたくなった。
とにかく狭くて馴れ合わなきゃいけないところが苦手なのですぐにどこかに行きたくなるから。」


‥‥そんな彼の、これから目指すもの、夢、そして伝えたいこと、とは。

「難しく考えずに、楽しくしゃべって歌って踊って生きる、こと。

やらなかった後悔よりも、やった後悔。

適当に生きようがマジメに生きようが結局価値観次第。
インモラリーの魅力を知らない正義は説得力がないのと同じで、自由を知らない協調も説得力がない。
自分の表現したいことをもっとプリミティブになって感じよう。」


‥‥彼との出会いは約1年前の夏。本人も述べているように彼主催のBBQで出会いました。
独特な雰囲気と存在感がとても印象的で。
その年の彼主催の忘年会のカレーパーティーでは、これもまた本人も述べているように踊り狂っていたのがとても印象的でした。
とにかく本当に楽しそう、それがとても伝わってくる「人」でした。
そしてBBQをすれば何十人も集まってくる、それも彼の人柄の良さならでは、なのだと。

年を重ねるごとに色々なことを難しく考えてしまったり、理屈で考えようとしてしまったり、かしこく生きよう、
と思う「自分」が、意識せずとも少しずつ大きくなっている「自分」を感じる中で、

楽しく生きるという根本的な大切さ、

シンプルであること、「感じる」ことの大切さ、

彼自身の持つ「雰囲気」から一つ伝えてもらえた気がします。



そして自分自身もまた「楽しむ」ことや「感じる」ことを大切にできる、



そんな日々を送っていけるように。





‥‥そんな彼から、最後に。好きな言葉たち。

「踊るうえで最大のミステイクは考えること、考えるんじゃない感じるんだ。」 マイケル・ジャクソン


「プロとアマの最大の違いは、アマは考えるし、プロは感じる。考えるのは音速、感じるのは光速。音速じゃあ光速には勝てない。」 プロ囲碁棋士 武宮正樹


「虚栄心を傷つけることは悲劇の父であるが、自尊心は傷つくほどさらに良きものを生み出す。」 ニーチェ


Tetsuro Endo.

2011年6月12日日曜日

本気で決意すれば力が出る!

新井 博暁。

路上ミュージシャン。
アルバイトをしながら、音楽でのデビュー・成功を目指し都内でバンドでライブをしたり、高円寺で一人で路上ライブをしたり、バーで歌ったりと活動中。

中学3年生の頃に初めてエレキギターを手に取ったことが本当に衝撃的であり、また幼い頃から親の影響でヤマハ音楽学校に習い事として通い、歌う事が本当に好きであった。

帝京中学入学し、そのまま帝京高校へ。
音楽をやりたいとの思いはあるも、両親の大学進学への希望と、自身のもつ世間体な部分も引っかかり帝京高校卒業後、法政大学へ入学。


大学時代。軽音サークルに入り、毎日好き放題過ごす。
就職活動の時期になるが自分はやはりこの就職活動に思い切り打ち込むことができず、いよいよ真剣に音楽活動に打ち込もうと就職はせず。

しかし卒業後は自分自身を自分で管理するということや、先に描くヴィジョンを明確に打ち出せず、甘えや、惰性、就職した友人と自分との劣等感、等に押しつぶされてそれとない日々を何年も過ごす。他と比べてばかり、日々の自分自身と見つめ合うことが本当に少なかった、というより見ないようにしていたように感じる。

そんな中、約二年前に埼玉スーパーアリーナで合唱することになり、そのグループに参加させて頂く機会があり、そこで歌った時の大歓声を浴びた時に、やっぱり歌いたいと、心から思う。

今まで本当に自分の我見とか惰性とかで真剣に音楽活動を出来ていなかった。
だけれど現在。この数年でそんな自分、内面的な部分を本当に少しずつだけれど見直していくなかで、本当に人との繋がり、触れ合い、が大切なんだと思える様になったこと、また本当にラストの勝負なんだという気持ちで思いっきりやる!という決意をもっている。
また相手が見ていなくても『目の前の人に喜んでもらう』という心をいつも思い歌っている。




‥‥つい先日。たまたま高円寺を歩いていると、路上で歌っている彼と出会いました。

特に人だかりがあるわけでもなく駅の南口の広場で一人、歌っていました。

なんとなく雰囲気が良かったので、少し離れたベンチに腰かけ彼の歌を聞いていました。

外は梅雨空の曇り空だったけれど、彼の歌はとても聞きやすく、とても爽やかな気持ちにさせてもらいました。



この「街」には溢れんばかりの人がいて、路上にも多くの人たちが溢れ、先を急ぎ足早に行き交っている。

そんな動きとは対照的に、その場所に立ち、ただそこに在り、何かの「想い」を伝えている、路上の「人」たち。

彼もまたそんな路上の「人」たちの中の一人。


あのとき自分が先を急ぎ足早に通り過ぎていれば、声をかけていなければ、今こういった形で繋がることなんてなかった。

ただそんな路上の「人」が、何を想ってそこに立っているんだろう、何を伝えたいんだろう、って、
気付けば心の中がそんな気持ちで溢れていて、体が勝手に動いていた。

その「人」それぞれの何十年の背景があり、何かの「想い」をもち、そして伝えたいことがある。

それを必死で伝えようとしている彼らが立つ、路上のその「場」は、

慌しい「街」とは対照的に、キラキラと光り輝いている。


繋がりがないところからは何も生まれない。

でも何か一つでも、こういった形でも繋がれば、そこから先には無限の可能性があるような気がするんです。

ここからまた、繋がっていくことができるよう、「願い」と「想い」を込めて。






そして、そんな彼の「夢」とは。

「本当に漠然としていて、まだ抽象的ではありますが、多くの人に関わり、また自分という人間を通し多くの人を救える人になりたい。

今は「音」、自分の歌、声を通して多くの人を励ませれる自分になりたい。」


活動状況。
Serendip Chord。
結成2008年。ジャンルにとらわれずFunk,R&B,Boosa,Rock‥‥様々なテイストを取り入れたPOPSバンド。日々日常にあるありのままの姿を甘いトーンのvocalで聴かせる曲からGroovyなFunky Songまで多様に歌う。都内近郊中心に活動中。
Serendip Chord official web site → http://serendipchord.jpn.org/

毎週金曜日 約17:00〜 高円寺南口広場で路上ライブ(雨天中止)。

バンドSerendip Chordで、都内ライブハウスにてだいたい月1本ペースでライブ、詳しくはwebで。


‥最後に、「西日が差す頃に」という曲の歌詞の一部分を抜粋させて頂きます。

「夢見た場所はあとどれくらい?行き先すら見えないで腐ってさ。

今日という一日を価値的にって、どれだけの人がそう言えるのだろうか。

思い通りに出来ないから駄目なのかな?って、無駄なんだって感じちゃって。

うまくいかない今日、明日をやり切る事が価値的と思うんだ。」

Hiroaki Arai.

2011年6月6日月曜日

ドブネズミみたいに美しくなりたい。

池ヶ谷正宏。

イベンター。
EOS(イオス)~TOHOKU FUKKO支援活動~代表。
SNSサイトmixi→http://mixi.jp/show_profile.pl?id=13224627&from=navi

個人ブログ→http://ameblo.jp/eventermasahiro/


中学生まで友達を遊びに誘うという行為が嫌いで、友達を一人も作らない。

高校時代、あみだくじの運の無さにより、応援委員に入る。後に応援団に入り、3年間正式に所属。

社会人になり、遊ぶ。モヤモヤする。遊ぶ、モヤモヤするをとことん繰り返す。

24歳の時にある人との出会いでイベンターの道を志す。大人が本当に子供のように笑い、遊ぶ姿にこの上ない幸せを感じる。

25歳の秋、野外イベントを行い、決意を固める。



‥その彼自身の中で一つの決意を固めた頃の、彼の想いを綴った文章を抜粋します。これには彼の今の「想い」がここに全て詰まっているような気がしたから。



「今はそんな生き方でいいんだ。

泥くさい人間が好きだ。一生懸命さが伝わる漢が好きだ。

甲本ヒロト、中山雅史、山田玲司・・・・

共通しているのは人間らしい。泥くさい「人」。

良くも悪くも、うまくはない気がする。

ただ、味がある。人々を寄せ付ける何かがある。

中身が熱さだけじゃない、繊細さを持ち備えている人間に思える。

学生時代、熱を怖がっていた自分がいた。

燃えていたい自分と燃えて、総スカンをくらったらどうしようという自分。

結局、同調性や周りの空気に合わせる自分がいた。

それだから一人でいることを望んでいた。

流されたくもないし、流されないように見せる技術もなかった。

それはきつい経験だったけど、あの時代があったから今の自分がいる。

その時代も含めて、本当の意味で今の自分が好きだ。

多分、根っこは泥臭くて、人情くさくて、涙もろかったり、熱すぎるくらいに熱い人間なのかもしれない。

20代ってきっとまだ熱くて良い歳。多分、自分が40や50になった時に20代に何を求めるかって想像したら、20代には「活気」や「熱さ」を求めると思う。

それが30代、40代を迎えていき、少しづつ変化をきっと起こしていくイメージが頭の中にハッキリと想像できている。

だから今は泥臭くて、いいじゃないか。

熱く生きる人間が一億人の中に何人か生きていてもいいじゃないか。」


‥そして26歳の彼の誕生日。3月11日。

東北地方大震災のあの日。

その日から2日後の3月13日。彼はこう文章に綴っていました。


「俺、ここ何日か凄い迷ってる。

何が自分にできる支援なのか。


俺がしてきたことで一番人を元気づけられること、何なのかなって。

正直わかんないんだ。どれが絶対的に正しいなんて。

だったら俺、一番自分が励まされてきた形で表現してみたい。

俺が励まされてきたこと。

それって、やっぱ「歌」。

キツイ時あったときにあんな「歌」を聞いて、励まされてきた。

泣きたい夜にあの「歌詞」を思い出して、頑張ろうって行動してきた。

俺はライブを仕切らせていただいているイベンターだけど、ぶっちゃけ

音符がよめるわけでもないし、楽器もロクにできない。

小学校から高校まで音楽の成績なんて5段階で2だった。

ただ、やっぱ好きだった。

スゲー、好きだった。

皆がダサいと思っていた合唱も一生懸命やってた思い出がある。

応援団の応援歌も好きだった。振り付けダサくても好きだった。

歌が国境を越える瞬間を友達でしてきた奴がいる。

路上アーティーストで皆を励ます奴もいる。

そんな奴らとはOKサインを貰って、動く体制にしている。

俺、被災地への募金支援はもちろんのことなんだけど、 周りの不安を少しでもいいから解消していきたんだ。

アコースティックギターならば、ほとんど電気も使わないだろうし。

歌って今まで人を励ましてきた大事なツール。

下記のように

We are the World 25 for haiti アーティスト名&歌詞付 日本語訳付。
http://www.youtube.com/watch?v=VhD6tuz_9uY

だから渋谷の路上に出て、一緒に歌おうよ。

一緒に募金活動しよう。

金額の支援だけでなく、人々を少しでも元気づけてあげよう。

歌唄うの下手だったら、歌わなくてもいいよ。 多分俺の方が音痴だけどさ。

一緒に盛り上がるだけでいい。

一緒に行動してくれる姿が皆を励ましてくれる。

皆を安心させてくれる。だから動こう。

俺は皆と一緒に動きたい。 」

‥それから数ヶ月経った現在、募金活動の形も「歌」から「呼びかけ、声だし、お辞儀」へと、場所も「渋谷」から「新宿」へと少し変わり、路上募金活動を土日行い、イベント活動も徐々に行う形になってます。
そんな募金活動を続ける中の心の葛藤や辛さ、喜びの「想い」も彼はこう文章に綴っていました。


「本当の意味で世間にほうりなげされたとき、

周りに味方がいないとき、

俺はとんでもなく無力なんだなと今日、思い知った。

まちゆく人々は関心をしめさない。

彩りされたモノであっても、声を少し大きめにしても俺の存在はないんだろうな。

悔しいな。

ホント久しぶりに心が折れそうだった。

募金箱は一人だからなのか、たまに人に当たりそうになるし、隣のあんちゃん達はチラチラとずっと見てくる。

スゲー嫌な気分なんだ。ぶっちゃけ。

「堂々と、いちゃもんとかつけてこいや!そのほうが楽なんだよ」って心の中で思うぐらいに。

ホントに無力で、人々を魅了できるような圧倒的な力が欲しいと思って、

涙が目にたまりそうになって、被災地の情報は知ってるから余計に悔しい。

2~3人いるときは人は聞いてくれる。関心を示してくれる。

やってることは同じだし、意味も同じだし。

他の募金団体もいなくなり、(隣でさせてもらっていた)本当にひとりぼっちになった瞬間がある。

ただ、ぼっーと突っ立っているなら楽だし、何も感じなくてもいいし。

ただ、俺がそこにいる意味は?

バイトして、お金をそのまんま送ればいいじゃんっていう話はよく聞く。

ただ、そんな中でも5月末までは最低限、休日はこれに費やすと決めたんだ。

俺がしているのは「金額」だけではないから。

「関心の薄いところに対しての自然的な投げかけ」も含んでいるから。

それを悲痛的な叫びではなくて、復興を力をかけている人々の支えとして存在していたい。

ボソボソと言うのではなく「わかりやすく、ハッキリ、活気よく」伝えていきたい。

それがひとりぼっちのときにはこんなに伝える「力」が減ってしまうとは。

マジで自分の価値が情けなかった。

ただ、腐らずにいたかった。

被災地の人のためとかもあるけど、もう本能的に近いレベル。自分がこういう性質でいたいというレベルのために頑張ってみた。

悔しくてわけわかんないから、微妙に涙目になりながら叫んでみた。

それでも人は見ない。

これが今のまちゆく世間の反応なのか。

俺の活動には魅了がないのか。

諦めモードが心に突き刺さってくる。

いらねえよ! そんな感情にまだまだ支配されとる俺はアホだ! そんな男でいたくねえんだよ!


そして、

今まで俺は、人にどれだけ頼っていたか、

どんだけ大切なのか、

人と一緒に動けることがどれだけ幸せだったのか、

頭の中でぐるぐるリバースしながら活動を続けていた。


そんな中、今日最大限に泣きそうになった場面は、

「仕事と仕事の合間の20分に参加してくれた女の子。」

「一人ぼっちで叫んでいたときに目を見て、頑張って下さいといってくれた兄ちゃん。」

最近、泣く機会ってなかなかなかったし、強く生きたいと思っていた今は「泣く」っていう行動自体を抑えるようにしていた。

強がるとか、無理をするとかじゃないんだ。

ただ、感情が一気に揺さぶられると一気に疲れのようなものも出るし、他の作業も出来なくなっちゃうのかなーと無意識的に考えてた。

今日の涙が悔しさなのか、喜びなのか俺には何かよくわからんが、何か大事な涙な気がした。

本当に隣にいるだけで十二分に力になります。

年齢も性別も技術も時間も本当に本当に本当に関係ないです。

隣にいることが力をくれる。

それを身体で味わってきました。

何分でも、買い物帰りでも、遊びのついででも構わないです。

ほんの少しでも構わないです。

俺は一緒に活動したいです。

皆さん、本当に本当によろしくお願いします。」





‥‥一度、僕が都内を慌しく動き回っていたとき、夜の7時を回り新宿駅西口にて彼と遭遇しました。そのとき彼は一人で街頭に向かって声を上げ募金活動をしていました。
それ以前から面識もあり繋がりもあったのですが、先を急いでいたので気付かないふりをして通り過ぎようとしました。でもどうしても頭から離れなくて急ぐ足を止め隣に立ってみました。
そのときにこちらを向いた彼の表情はなんだか忘れることができません。
そして真横から伝わってきた彼の「想い」もまた同様に。
電話に呼ばれ、自分が共にいれたのはほんの少しの間だけ。

募金活動。僕自身も否定的には思っていないですが、肯定的にも思っていませんでした。
「理論」や「理屈」、「効率」で考えれば、募金活動は「否定的」に捉えられる要素を幾つも並べることができるから。
街行く人も似たような捉え方、もしくは無関心か中には否定的な人も多かったりするのかもしれない。

でも彼のこのまっすぐな気持ちを感じ、その姿をこの目で見たなら、そんな気持ちなんて僕は吹っ飛んでしまいました。

本当に大切なのは、「理論」や「理屈」じゃない、「感覚」や「感情」なんだって、ただただそんな気がするんです。

募金活動をいつまで続けていくのか、あるいは次の支援活動へ移行していくのか、それは僕には分からないけれど、

「震災」とまっすぐ向き合い、活動を続け、

そして「今」と一生懸命向き合い、活動している彼に贈るべき「言葉」や「行動」は、

温かさや思いやりのある「言葉」であり「行動」。

のはずだから、新宿駅の近くで彼の活動と出会うときがあったなら、どうか「温かさ」をよろしくお願いします。


募金活動。一度だけでも良い、

最後の日があるのなら最後の日でも良い、素敵な人たちを集めて、始まりのきっかけだった、大好きな「歌」で、もう一度、募金活動を。

それで俺は彼のとびっきりの最高の笑顔を近くで見たいんだ。


素敵な「歌」と「人」と「笑顔」に包まれて。







‥最後に、彼の「夢」とは。

「夢はありすぎ!

常識を変えるイベンター。

最終的には現場で遊びに来てくれた人々と同じ目線で、一緒に遊べれるようなイベンターになっていたい!

「屋上でギター鳴らすぜ!廃校LIVE」

「無人島自体を貸し切って、野外フェス会場にまるごとする」こと。

そして「人類初の宇宙空間LIVE」

Masahiro Ikegaya.

2011年6月1日水曜日

大丈夫、頑張ればなんでもできる。願いはきっと叶うから。

優。

看護師。

東京都中野区出身。
二人姉妹の長女。
両親、祖父母、曽祖父母、叔父、叔母の大家族の中で育つ。

女の子なんだから‥と、自転車すら禁止され、将来かわいいお嫁さんになるためにと大事に、ある意味過保護に育てられた。何の不自由もなく幸せであったが、幼少期から好奇心は旺盛。女の子だからダメなんて理解不能であった。

中学校時代。
吹奏楽部でフルートを吹く。
受験勉強を優先するよう言われながらも最後まで没頭する。

高校時代。
海外生活に憧れる。
ハワイマウイ島での短期留学にてさらに熱は高まる。

短大時代。
保育の勉強、実習を通して、子どもと関わることの楽しさを知る。
幼稚園の頃からの夢、幼稚園の先生をめざす。
そして幼稚園の先生になり、その後、寿退職。


ここからが波乱万丈人生の始まりとなる。

若くして結婚。

幸せは長くは続かなかった。

親にも言えず、友達にも相談できず、誰にも言えずに離婚。まさかこんな事になるなんて想像もしていなかった。

いつまでも泣いてばかりいるわけにはいかない。

東京から出たことのない私は、この際どこか地方へ行こうと考える。なぜか四国と鎌倉の幼稚園に問い合わせる。が募集なし。幼稚園教諭人材バンクへも登録。

そんなことをしている時に、看護学生募集のポスターを見る。
なぜか心が惹かれた。小児科だったら自分の経験が生かせるかも。そして、受験勉強が始まる。ちょっと遅いが、自立への第一歩。何も知らない親からは、今更何をしているのかと咎められるが、もう必死だった。お金がなかったので、選択できる学校は二つしかなかった。面接でいじわるな質問をされるが、何とか合格。と同時に北京の日本人幼稚園と目黒の幼稚園から採用の連絡がくる。ちょっと迷ったがスキルアップを選択した。

看護学校に入学してくるのは、全国の高校を卒業したばかりの人9割。心強いことに社会人経験者や主婦も約1割いてホットする。でも、なぜか年齢の近い人たちより若い人たちと仲良くなり、3年間支え合い、今でも付き合いは続いている。人の命にかかわる仕事をするのだから当然なのかもしれないが本当に厳しい3年間だった。朝になってしまう!時間がない!と泣きながら勉強するなんて今までなかった。

悲しい涙ではなく、必死の涙をよく流した3年間だった。

実習は辛かったが、患者さんに会うのは楽しみだった。

お散歩とおしゃべりが大好きだった末期がんの患者さん。

乳がんのオペ後のリハビリを一緒にやらせて頂いた患者さん。

糖尿病の治療計画を一緒にたてて、協力してくれた患者さん。

点滴を何度も抜いて困らせてくれたかわいい小児科の患者さん。

自分が支える側なのに、いつも支えられていた。

命というものを考え、どう生きたいか、死にたいかと死生観を考えた看護学校時代だった。


そして現在。
児童思春期精神科ナースとして働いている。

ふと思い出す1人の男の子がいます。

主訴。ネグレクト。

親なんて信用できない。

幸いにも少しづつ心をひらいてくれて信頼関係ができてきた頃、家には帰れないので、施設に入所ということになったが、私は、無理やりではなく、自分の意思で決めてほしいと願った。
子どもは大人に守られて、勉強したり運動したり遊んだりして心も体も健康に育たなくてはいけない。
そのためには、家で生活するよりも施設で生活することが望ましいと私達は考えている。でも無理やり大人の意見だけで決めたくはない、一緒に考えようと伝える。

それでも彼は、もちろん「帰りたい。」と言う。
説得するのではなく、彼の気持ちを聞いて、なるべく添える条件を施設に伝え環境調整に努め、彼との時間をたくさん作りいろんな話をした。彼は何度も泣いたけれど話すことを拒否しなかった。

そして、児童相談所との面接日。
彼の口から、
「僕、施設に行きます」と。

彼の心の葛藤や答えを出すまでの心の状態を考えると涙が出た。
彼が入所する施設へ申し入れた条件を再確認し絶対に裏切らないでほしいと伝えた。


彼が病院から施設に行く日。
私は勤務ではなかった。
勤務日以外は患者さんに関わらないように決まっているが、この日は看護長も何も言わず見送らせてくれた。

彼も私も言葉を交わせなかった。

ただ車の窓からじっと私を見ていた。

しっかりと上を向いて。

彼のあの表情を今も忘れる事ができない。


看護師が関われるのは、ほんの短い期間。自分に何ができるのか。毎日の課題。

楽しいことを知らない子どもたち。

希望をもてない子どもたち。

「大丈夫!頑張ればなんでもできる!願いは叶う!」

といつも子どもたちに言っている。
私だって普通に生きてたら経験できなかったことを経験できてる。

普通に生きてたら出会えなかった人たちと、出会い繋がっている。

だから普通じゃなくても、どんな事があっても大丈夫!

願いは叶うよ。


人生において偶然の出来事や出会いには、いつも意味があると感じる。振り返ってみると、よく分かる。

今幸せでいられるのは、過去の出来事や出会いのおかげなのだと思い感謝する。

そして、これからは出会えて良かったと言ってもらえる人になりたいと思う。


最近の大きな出会いは100旅。100旅に参加できたことで世界が広がった。
夢を現実にできる仲間たち。
本当に出会えてよかった。

その仲間たちと下北沢にて。メイン主催メンバーの一人として6月4,5日被災地支援チャリティーイベントを開催。
http://tabibana100.com/event.html
100旅でつながった人からさらに輪が広がる場となる事を願う。




最後に今の夢は、

世界中を旅しながら世界の海に潜りたい、かな。

you.


‥彼女もまた100旅本第4弾企画に参加し「地球に恋した旅人たち-大地編-」の37ページ、「I LOVE CEBU」にて執筆されています。
そして現在、この第4弾100旅本をもっと皆に知ってもらおうとプロモーション活動のリーダーもされています。
いつもいつも、いままでのイベントにも参加してくれて、僕自身何度も気持ちの部分で支えてもらえていました。

長い間ずっとよく分からなかったことがあります。どうしてこんなに活動に一生懸命なのだろう、と。
今、ほんの少しだけ分かったような気がします。


大丈夫。頑張ればなんでもできる。願いは叶う。


子どもたちに向けられた、この言葉。

それはきっと、彼女自身がこれからも一つ一つの願いを叶えていく「人」であれるよう、

そしてその「姿」を子ども達に見て感じてもらえるように、

そうやって子ども達に「人生」の「楽しさ」と、「みらい」への「希望」を感じ持ってもらい、

前へと一歩ずつ歩んでいってもらえるように、と。


なんだかそんな気がするんです。

子どもの「笑顔」と「力」は凄いんだから、無限の可能性があるんだから。

そして大きな大きな「力」をもらえるんだから、僕がそうであるように。


6月4,5日の下北沢の被災地支援チャリティーイベント。
http://tabibana100.com/event.html


この一つのコトでも、その背景にはきっと多くの「想い」が詰まっている。

そこには子ども達から繋がった「力」や「想い」が溢れているのかもしれない。

だから願わくば、これを読んでくださった方が一人でも多く足を運んで頂ければと感じています。


それがまた、「明日」の子ども達に繋がっていくかもしれないから。