2011年5月28日土曜日

一生青春 -「結縁」と「尊縁」と「随縁」に包まれながら-

明野裕一。

税理士補助。


『育ち』

1984年川崎市生まれ。

二人兄弟の長男。
小学校入学前に両親が離婚。父とともに父方の祖父母のもとで生活を始める。
祖父母ともに60を迎える頃だったと思う。祖母は親族のたくさんの子を育てた、というのがいつもの自慢だった。

僕もそのひとり。
父親は仕事で日中は不在。朝のおはよう と 夜のおやすみ、そして日曜日にしか一緒にいれなかった。それでも少しも不満はなかった。
祖父母がいつもそばにいてくれたからだ。

うちのばあちゃんは、、誰もが認める料理上手。お陰様でコロコロ太った。うまい!と言えば週に3日は同じ料理を立て続けに食べさせてくれた。なにしろうまかったんだ、ばあちゃんの料理は…
今でも、僕が作る料理の基礎となる味は、ばあちゃんのものだ。

じいちゃんは寡黙で、厳しい人だった。背の高かったじいちゃん。
「じいちゃんと一緒に寝ると背が大きくなるよ。」と、ばあちゃん。
それでもたまにしか一緒に寝なかったなぁ、やさしいばあちゃんの方が好きだったんだ。ごめんよ、じいちゃん。

でも、じいちゃんもやさしかったよね。あるとき急に、小さなウサギのぬいぐるみ買ってきたよね。男の子だもん、正直恥ずかしくて「いらないよー。」って言おうとしたけど、僕の反応をニコニコしながら待っているじいちゃんを見たら言い出せなかった。でもずーっと大事にしてたんだよ。

ありがとう。

そのぬいぐるみも僕が高校生になり引っ越しのドタバタの最中どこかへいってしまったみたい。僕もじいちゃんとばあちゃんとほんの少し離れた。
その頃からじいちゃんが痴呆症になり、見る見るうちに老いていった。介護が必要になり1日のほとんどを寝て過ごすようになる。同じく年老いたばあちゃんだけでは、介護は難しく、すぐ近くに居た僕が毎日のように呼び出された。ばあちゃんも疲れ切っていたね。

ある時、深夜にばあちゃんからの呼び出しがあった。すぐに駆けつけると、リビングの椅子に座ったままのじいちゃんに困り果てての事だった。何度呼び掛けても眠たいようで動かない。持ち上げようとしても嫌がる。
(あんまりばあちゃんを困らせないでくれよ…)イライラして思わず声をあげた。
「いい加減にしろよ!」…初めてじいちゃんに向かって大声あげてしまった。

ごめんよ、じいちゃん。

時は過ぎ、大学へ駒を進める。
大学一年生。ある日の大学からの帰りの電車内。携帯電話にじいちゃんの死を知らせる電話が入った。
一番身近な人の死に初めて向き合う。
眠るじいちゃんにあの時言えなかったごめんを言った。
葬儀が終わり、じいちゃんの遺品を整理していると棚の間から日記が見つかった。じいちゃん、いつも几帳面に何かを書いていたもんね。
ばあちゃんが見ていいよ、って言うからこっそり見ちゃったんだ。

僕の事たくさん書いてくれていた。ずーっと‥

日付をゆっくりのぼり僕が中学生くらいの時まで読み進めたとき、僕は涙が溢れてとまらなくなった。
「最近、反抗期だろうか。裕一が冷たくなった。」

じいちゃん、ごめん。
そんなつもりはなかったよ、ごめん。
じいちゃん、いつも見ててくれてたんだね。

じいちゃん。許してくれるかな、

ばあちゃんばっかりに懐いたこと。
プライドが高かったから、きっとイヤだったんじゃないのかな、ボケてはいてもオレなんかがオムツを換えたこと。
面倒を見てきた孫に大声をあげられたこと。

そして僕が言えなかった「ごめん」と「ありがとう」を聞けなかったことを。


『人』

こんな祖父母のもとで育った僕。
人に優しくなれたのもこの祖父母のお陰だったかもしれない。
たくさんの先輩方、尊敬する師。そして多くの友人。

高校の親友。
よくケンカした、泣いたり笑ったり。みんなで夜に集まり、ドンチャン騒ぎ。オレはフラフラして河川敷で迷子になった。川に浮かぶ木片を見て「ハッ」とした友人たち。朝方まで捜してくれた。みんなが諦めた。それでも最後の最後で見つけてくれた親友。オレのために泣いてくれた。
そんな親友。高校を卒業すると「夢のため勉強に専念する。」と友人関係を絶った。
それでもオレはこいつだけは離すまいと、オレだけはいつまでも一緒にいるからなと誓った。

なぁ、想像出来るだろ。おっさんになっても、子供が出来たときも、じいちゃんになっても、
飲んで、笑ったり、泣いたり、お前とは一生そばにいる気がするんだ。
お互い目指すモノのため、もし、互いに道を逸れるようなことがあったら、お前がオレを正してくれよな。
なんて語り合ったりもした。

そして親友は、夢だった消防士になり今も輝いている。

大学では大人の付き合いを、義務と権利、自由を手に入れた。
大学生の頃アルバイトで入った小さな居酒屋。
人生の先輩方、カウンターを挟んでたくさん話を聞かせてもらった。

いつも陽気な店長。酒も煙も大量摂取。バイト終わりにいつも朝まで付き合わされた酒。楽しかったよ。まるで父親のように叱ってくれ話を聞いてくれた。

酒を飲み、
お互いの夢や希望を語り、
熱くなり、
お互いの境遇や悩みを語り、
涙した。

大学4年の夏休み。沖縄へ行こうと決めた。じいちゃんが亡くなってから沖縄に住む息子のもとへ行っていた、ばあちゃんに会いに行くために。
社会へ出る前の最後の自由な時間もある。「行くぞ。」友人たちに話すと2人が一緒に行くと言ってくれた。バイトも長期休暇、就活もしないまま学生最後のバカ旅。
浪漫。やるならトコトン。バイクで行くぞ。
出発も目前の7月。不覚にも道路交通法違反で捕まった。免許取り消しのための出頭命令。

…行こうぜ!

父さんに頼みがあるんだ。警察から連絡が来たら息子は家出しましたって言っておいて。
大事なものがないままバイクで旅立つ。
一般道でのんびり自由に、各所を巡り、道の駅で毎日野宿。
今まで観たこともない景色を観、人の温かみに感謝をしつつ、14日間を費やし沖縄に到着。

ばあちゃん。会いに来たよ。


『夢』

そういえば、じいちゃんもばあちゃんも「お前は立派な人になるよ。」って、いつも言ってくれてたね。
でも僕は勉強はてんでダメ。ただただ、普通教科の勉強がしたくなかったのと、算数と数学が好きだったため、高校は市内にある川崎商業高校へ。
そこで今の仕事へと繋がる。
「簿記」に出会う。面白くて夢中になった。簿記の勉強では誰にも負ける気はしなかった。
自惚れ屋さん。
授業を無視し、独学で勉強を進める。担任に咎められ暴言を吐く。「先生に教えてもらうことなんてありませんよ!」
卒業後担任に再会。その事を忘れてはいなかった。「お前に言われて今資格の勉強をしてる」と。

オレも負けませんから。それと先生。今なら言えます。先生に向かって偉そうな事を言ってごめんなさい。

会計学を学ぶため、はるばる大東文化大学へ進学。素晴らしい師と出逢った。
学問はもとより、社会人としてのマナーや人生を豊かにするための心構えを多く教わった。

その中でも「好きな言葉は?」と訊かれれば答えるほど心に残ったものがある。

[サミュエル・ウルマン]作詩の
“YOUTH”『青春』だ。
邦訳で[岡田義夫]さんのものがあるので少し紹介する。

“青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ”
“年を重ねただけで人は老いない”
“理想を失うときに始めて老いが来る”
“人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる”
“人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる”
“希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる”

いつまでも『青春』で在りたい。

もう一つ好きな言葉を。

元総理大臣、中曽根康弘 氏が大切にされてた言葉。

“「結縁」、「尊縁」、「随縁」”

「結縁」とは。
「縁」を結ぶこと。
数多くある出逢いの中で、人生をともに歩む仲間と縁を結ぶことは大切な事だと。

「尊縁」とは。
「縁」を尊ぶこと。
出逢い結ばれた仲間との縁を大切にし、これを尊ぶこと。

「随縁」とは。
「縁」に随うこと。
縁を結んだ仲間によって人生は如何様にも変わる。
この結んだ縁によって出来た人生の流れに逆らわず随っていこうというもの。


今、この場でこんなことを話しているのも「縁」だと感謝している。

それも昨年出逢った友人『アキ』と「縁」を結んだことによる。今では親友と呼べる兄弟のような仲だ。『アキ』を見ているとたまに眩しく感じる事がある。
オレも負けてはいられない。

現在は実学へと駒を進め、赤坂の会計事務所で働く。
多くの友人たちの期待と圧力もあり、資格取得に向け日々勉強中。

いつまでも「輝いている!」と誇っていられるように。

みんなと笑っていられるように。

これからも日々勉強。


いつまでも『青春!!!!!!!』

Yuichi Akeno.



‥今確かに結んでいる「縁」があります。その「縁」を大切にして尊び、
これから思い悩むこともあるだろうけど、自分自身、この結んだ縁によって出来た人生の流れに逆らわず随っていきたいと思います。
きっとこの「縁」が自分にとって一番の、そして結ぶべきであり結ばれる「縁」だと信じているから。

そうやっていつまでも笑っていたい。

そして近くで「笑顔」を、いつまでも見ていたいから。

2011年5月25日水曜日

After all,tomorrow is another day-明日はまた明日の陽が昇る-

二瓶大輔。

薬剤師。糖尿病療養指導士。

神奈川県横浜市に二瓶家の長男として誕生。
母親はピアノの先生。逃げるために小学3年から水泳を習い始める。

中学時代。東京まで1時間半の通学。
それでも水泳の朝練をこなす。
ホームステイ先との文通から海外からの絵葉書に興味を持つ。

高校時代。
水泳+ライフセーバーの部活漬け。

大学時代。
1年間の寮生活に憧れ、富士急ハイランドの麓へ。

過ごす毎日は、朝まで喋って飲んでで、ほとんど修学旅行。1学年が400人ちょい。なので、みんな友達。

大学院時代。
研究と病院漬け。
ドラッグストアでバイトをしながら、でもなんとか修了。

そして社会へ。

ふつーじゃないのが好き。

新しいことをしてみるのが好き。

もちろん人と話すのも好き。

社会にでて旅に出る楽しみを見つけた。

仕事は同僚が行きたがらない病棟の担当。

血液の病気って怖いイメージ。
治らないそんなイメージ。

抗癌剤治療をしながら入退院を繰り返す、そんな病気。

白血病と戦う祖父を見て育った。

だから大学病院で働く道を断り、最後まで祖父を治療してくれた病院を選んだ。

働くのが生きがい。

そんな仕事漬けの毎日。



ちなみに写真のペンギンは自分。

TVにも紹介されたクリスマス回診で、退院できない入院患者のためにDr達と着ぐるみを着て変装し、クリスマスカードを渡す。
泣くほど喜んでくれるのを見るとやって良かったと感じるひととき。


‥100旅本第4弾「地球に恋した旅人たち-大地編-」の35ページ「Love Beer??」で著者としても執筆されている彼。
連休があれば海外へ弾丸トラベルへ向かう彼。
国内も飛行機で飛び回る彼。
ブログ→http://blog.livedoor.jp/phardaisuke/

そして‥社会に出てから旅に出る楽しみを見つけた彼。
そのきっかけとは。彼はこう語ってくれました。


「旅に出る機会を与えてくれた、ある一人の患者さんがいました。

癌。

治らない血液がんで 、緩和的な抗がん剤治療をしてた方。

1カ月ごとの繰り返す入院の中、副作用チェックとともに 少しだけ話す「旅」の話。

「昔、ここに行ったの。」

「また行けるかしら?」

「行ったとこの写真が見たい。」 と話す、その人。


お土産はあげられないけど、お土産話はしてあげられる。

撮った写真をアルバムにして、無菌室の孤独な時間に眺めてもらうことはできる。


当時、日本しか行ってなかったのもあって、

「海外は行かないの?行けるわ。私でも行けたもの。」 と話す、その人。


今思うと、それが始まりだったように思う。

100旅に出会えたのもその方と会えたから。

今は亡き、その方のおかげ。


旅をしていても感じるけど、『一期一会』ってこういうこと。


自分にとっては、毎日会う沢山のうちの1人。

でも患者さんにとっては「Only One」

そう思いながら、日々仕事してます。

これからも感動できる経験をして、その話で人を感動させたり、幸せにすることができたら良いな、と思っています。

そんな自分の夢。

「新婚旅行で世界一周」

Daisuke Nihei


‥彼との出会いは100旅。前回お話させて頂いた「Mirai」で昨年の10月末に100旅のイベントを開催したときのこと。
その前に一度だけ会ったことのあった彼に、お誘いメールをしたところ、おそらく元々参加する予定ではなかったはずが、遠征先の大阪の学会から予定をうまく調整し、駆けつけてくれました。
そんな優しい彼。

そしてあの誘いがなければ、そして駆けつけなければ、出会った人達と旅に行ったり、あの場の人と出会うこともなかったのかもしれない、だからありがとう、と言ってくれる温かい彼。

ありがとうと言いたいのは本当はこっちの方なのに。

今思えば、あの一通のメールがこれもまた何かの始まりだったのかもしれません。

あれから今までの間だけでも、共に過ごした楽しい思い出が色々とあります。

きっとそしてこれからも。


どこでそんな「始まり」や「きっかけ」があるか分からない。だから人生って面白いのだな、と。

繰り返される毎日でも、明日はまた別の日。


明日はまた明日の陽が昇る。

そう思い、僕もまた明日を迎えようと思います。


「曇り空」じゃなく、明日もまたきれいな「陽」を昇らすことができるように。

2011年5月15日日曜日

夢ちゃん、父ちゃん頑張るけんね。後ろ姿、よう見とけよ!


下園卓 26歳。

老健の介護士。

現在、妻と子の三人家族。

高校の時に、着ぐるみのバイトで、食パンマンになる。そこで当時のドキンちゃんと、恋におちる。ちなみに、それが現在の嫁。

大学4年になっても就職活動もせず、毎日を過ごす。発達障害児を相手に、ボランティア活動を行い、そこで知り合ったおっさんに紹介されて、現在の職場である、老人保健施設で働き始める。

2007年12月に「結婚しよーやドキンちゃん」ゆーて、翌年12月に結婚。次の年には、子供、「夢」ちゃん誕生。


現在、平々凡々な毎日を過ごしています。給料そんなにもらってるわけではないので、決して楽な生活ができてるわけではないんですが、それでも、家族3人寄り添って、笑いあいながら生きています。

子供の成長は早くて、見てて楽しいです。
昨日までできなかったことができるようになったり、歌を歌ったりしてるの見てて、こいつ一生懸命生きとるなぁと感じます。こっちが元気もらってますって感じですね。



‥介護士として働き、家庭を持ち、日々過ごしているそんな彼の、「伝えたいこと」そして「夢」とは。
彼はこう語ってくれました。



「普通の生活」と「家族」の大切さですね。

人より苦労してるわけでもないし、酒飲みながらウンチク垂れる程度の事しかできない俺が言うのもアレなんですが、 毎日仕事から帰って家の灯りとかみると、落ち着くんですよ。そんで中に入ると子供とかが出迎えてくれて。外でどんだけ嫌なことがあって、落ち込んで帰ってきても、いつもと変わらず接してくれて。疲れとか、吹っ飛ぶんです。


世界を旅したこととかないんだけど、俺にとっては、ここがどこよりもすばらしい世界だと思っています。

「普通の日々」と、「家族」は、俺の宝ですね。


仕事の話でいうと、来年のケアマネ試験受かって、ケアマネさんになっちゃろうかと。給料安い、きついとかいう話は聞いてますが、あえてやっちゃろうかと思います。

そしてもうひとつの「夢」。
夢ちゃんの大人になった姿をみることでしょうか。どんな大人になるかわからんのんですが、せめて人の道を踏み外さなければ、何でもいいので。花嫁姿とかは、見たいですね。




‥彼との出会いは大学生の頃。何がきっかけかは覚えていませんが、大学の同級生。
彼も述べていた発達障害児へのボランティア活動。僕も2回だけ参加したことがあります。
1回目は大学入ってすぐの頃。だけど子どもとの接し方も分からず、当時子どもが好きでもなく苦手だったのでそれ以降参加することはなく。
2回目は大学生活後半の頃。彼に言われて参加。そのときもまだ子どもは苦手でどうして良いのか分からず。間違いなく2回目は彼に誘われることがなければ行かなかった、彼だから参加した覚えがあります。
そんな自分が今、小児科病棟で働いているなんて、人生とは本当に何が起こるのか分からないものだと感じつつ。

あの頃から、思いやりがあり、温かく誠実な「人」。
自分がオーストラリアで1年過ごしていた頃も、日本からメールを送ってくれたりした数少ない相手の中の一人。
色々あったあの頃の生活の中で、それがどんなに嬉しかったか、
きっと知るはずもなかったことと思います。


「世界を旅したことはないけれど、ここがどこより素晴らしい世界だと思う。」という彼の言葉。


世界を旅している人だけが、輝くのではない。

大きな夢がある人だけが、キラキラするのではない。

何かを成し遂げ、大きくなった人だけが、幸せなのではない。


「人」の数だけ、「幸せ」にも形がある。

「幸せ」もまた、自分の「心」次第。


それをまた、こうやって彼に教えてもらえた気がします。

間違いなくこの彼の言葉たちから伝わってくるのは「幸せ」と「笑顔」で溢れているから。

「幸せ」と「笑顔」に溢れた「世界」は、どこよりも、何よりも素敵な「世界」だから。


またその素敵な「世界」に遊びに行かせてもらいます。


「世界」にたった一つの「Home」に。

そしてそこには1日、1日と、大きく育っていく「夢」が在るから。


「こころよ
では いっておいで

しかし
また もどっておいでね

やっぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行っておいで」

八木重吉「心よ」

Masaru Shimozono.