2011年4月29日金曜日

「辛い」ということ。それはもう少しで「幸せ」になれそうってこと。


本谷京子。

助産師。

2011年3月。2年間の青年海外協力隊の任期を終え、中南米エルサルバドル共和国より帰国。

幼い頃に見たTVで映ってた発展途上国で活躍する看護師さんに憧れ、ただ正義感に燃えていた気持ちを大人になっても失わず、2年前青年海外協力隊員としてエルサルバドルへ。

活動は、辛いことが多くて、自分のプライドの高さを思い知り反省し、自分自身の弱い面に向き合う機会となった。日本という先進国で自分が幸せに生活し、どれだけ多くの人に支えられて仕事をしていたか、自分が助産師としてまだまだ未熟だということも改めて実感した。
また、日本では、医療者と共に安全に出産することが当たり前で、妊娠・出産の過程でトラブルが発生すれば大ニュースになる。しかし、あの国では妊娠・出産中に児が亡くなっても、母が亡くなっても、それは神が望んだことで、誰にも責任はない。病院は病気の人が行く所で、妊娠は病気ではない。日本では、考えられないようなことで妊産婦または乳幼児が亡くなる。教育の違い、男尊女卑が残る社会で、やはり女性は弱く、望まない妊娠、知識不足の結果、母子とも危機に陥る。そんな悲しい事実もあれば、保健所内や道端では所構わず、児に母乳をあげる母の自然な姿を見かけ、母の偉大さを感じ、日本人が忘れかけている自然な子育て、ほほえましい光景を見ることができた。
また、日常生活では、国籍が違えば言語が違い、文化が違う国で、沢山の人に出会い、冗談を言っては笑い、辛い時は一緒に悩み、一緒に涙する友人ができた。
この2年間の経験は、大変貴重であり、すべて私の人生の糧になると信じている。

これから助産師として、その中で何を目指すのかはまだ模索中。プライベートではそろそろ温かい家庭をもちたいかな。



‥4月29日今現在。24日より2週間、JICAの災害ボランティアとして宮城県岩沼市に看護師として現地で活動を行っています。

彼女との出会いは22のとき。ワーホリでオーストラリアで過ごしていた頃。
友人達とともにタスマニア島をレンタカーを借りて1周をしたりもしました。
レンタカーをぶつけて壊したのは‥僕でしたね。あのときは本当に申し訳なかったです。
今となってはそれもまた良い思い出。
テニスの全豪オープンもともに見に行きましたね。


あの頃から、とても強そうに見えないけれど、芯が強くてしっかりしていました。そして優しさや思いやりに溢れた「人」。

そしていろんなことで悩んだり、考えたりするとても人間らしい「人」。

オーストラリアでも、エルサルバドルでも、そして今宮城でも、きっと他の人には分からない葛藤や悩み、辛さを感じ、今もまたそれを抱えながら活動していることと思います。

イノチの現場というのはそれだけ深くて色々な想いが交じり合っているところ。

でも「辛い」の先には「幸せ」がある。

そうやって色々な出来事と正面から向き合い、そして「辛い」気持ちを「幸せ」な気持ちへと繋いでいる彼女の生き方。


僕もまた彼女のように「辛い」という気持ちを「幸せ」へと繋いでいけるように。

たくさんの「辛さ」があったとしても、それはきっとたくさんの「幸せ」に繋がっていくはずだから。







‥みんな夢を持っている。

でも、その一歩を踏み出す勇気を持っている人は少ないと思う。

だから、その一歩を踏み出せたとき、夢への道のりは半分は過ぎたようなもの。

そして、その先、道は長く続き、辛いこともあると思う。

でも、きっと辿り着けるって信じてる。

Kyoko Hontani.

2011年4月25日月曜日

ありがとう。ミラクルとそして最高の旅とともに-医食同源・身土不二・心身一如-


古屋雅子。

東洋医学好き薬剤師。
カイラスヨガ協会公認 チベット体操インストラクター
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=78084&userflg=0
外資系メーカーの会社員でもあり、リーマンパッカーでもある。
 
ブログMiracle Journey
http://ameblo.jp/macha0625/

高校時代を発端に二十歳すぎくらいまで、自分を好きになれず、大事にすることができず、スッキリしない日々を送っていた。
大学時代前半までは、ストレスフルな環境もあっていつも体調がすぐれずボロボロだった。
そんな自分と、自分の生きる世界に、疑問を感じることがよくあった。

自分はこのままじゃいけない、そう初めて真剣に意識し始めたのが19歳の頃。
そこからジタバタしつつも、数年後にはまずボロボロにしてしまった身体を立て直そうと考え始めた。

またそれは、ちょうど大学で東洋医学の研究を始めるタイミングと重なり、その考え方に納得。
地球に生きる人にとってあまりに自然で、自分にとっては理にかなっているものだった。

同じころ、世界を旅するようになった。
当時、都会で派手に遊ぶようなこともしてはいたが、元々遺跡に興味があり、自然が好きだったことを思い出し、そういう素直な想いに従うことにしたのだ。

当時の自分にとって旅とは、そのような本能的な欲求を満たすものであり、何より日常で頑張るためのエネルギー補給源となっていった。

気付いたら、妙にすっきりした自分がいた。

疑問だったいろいろなことに、自分なりの答えを見つけた。

ジタバタしはじめてからそこまで、時間にしたら短いかもしれない。ほんの数年のことだけど、とても濃い時期だった。
世界は何も変わらないし、傍から見た自分もほとんど変わってはいなかっただろうけど、自分の中身が大きく変わったのがよく分かった。今ではその前の自分がもう思い出せないほどに。
これでやっと、普通の人くらいにはなれたかなと、当時の私は思ったものだった。

このままじゃいけないと思ったあの頃。自分は、何か人の役に立てるような人になりたい、
自分を頼ってくる人に対して、的確なアドバイスできるような人になりたい、漠然と、そう思っていた。
でも自分があまりに無力で程遠いと感じ、まずは自分からなんとかしようと思ったのだ。
そこから、今に至る「私」が始まったような気がする。


社会人になってからも、仕事がハードだったせいもあり興味は心身の健康にあった。
同時に、もっといろいろな世界を体験したい、刺激を受けたいというもともとの好奇心旺盛さもあり、敢えて会社務めを選んだ。
旅は生活の中心となっていたので、休みの取りにくい仕事という選択肢はなかった。
数えてみると、かれこれ40カ国ほど訪れたようだ。

2009年、100人100旅プロジェクトの立ち上がりのときに参加。
大好きな旅と写真が本になるという魅力と、印税はすべて寄付するという志が気に入った。

執筆者も読者も満足ができ、なおかつ寄付までできるとは誰にとってもデメリットのない、素晴らしい仕組みだと感激。
増刷されないと印税が出ないので、積極的にプロモーション活動を行った。
たくさん売れたことを考えると更にいろんなことが起きそうで、わくわくしてしょうがなかった。

参考
http://www.47news.jp/localnews/yamanashi/2010/04/post_20100427130953.html  
また、100人の仲間がいればそれだけできることや可能性が広がる。それが楽しくて、第一弾の出版以来活動に関わり続けている。


自らの心身健康を模索する中でチベット体操を知り、それによる劇的な変化を体験。
ちょうどニーズがあったので、インストラクターになり人に教えることにもなった。2007年のことだった。

チベット体操インストラクターとしては、朝日カルチャーセンター立川教室での講座に加え、2010年は100人100旅写真展のイベントとして東京と熊本で無料体験会を開催。
また、2010年9月にはTV東京『イキイキ美人サロン』に出演し、タレントに指導。その後、結婚のため講師はお休み中。いずれ再開予定。 

その他、2010年は漢方の軟膏作り教室、天然石アクセサリー作家としての活動等も行っている。
こちらも今後も時間を見つけては行うことになるだろう。
 
自分が望むことを行い、いつも心が充実していると、特に自分から働きかけずとも、
更に楽しくなるようないろいろなことが舞い込んできたりもするものである。



‥‥‥そんな彼女のこれから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。


2月に結婚をして、新しい生活が始まった。3人に1人が癌になるという世の中。自分の父親もそうであったように。
今後は自分だけでなく家族の健康促進・健康維持も課題になってくる。
いろいろな発見を楽しみながら、家庭生活を送ることになるだろう。

ビジネスパーソンとしては今現在ちょっとした岐路に立たされている。
今の仕事はやりがいもあり、生活とのバランスも取りやすいためちょうどいい。
しかし、自分の更なるビジネススキルのアップのためには海外留学や転職も視野に入れるべきだという社長のアドバイスに多少揺れ動いてもいる。
とはいえ、自分のワーク・ライフ・バランスに合った選択をすることになるだろう。
来年の今頃どんな状況か。それは私にもわからない。

ボランティアや慈善活動は、当たり前に行うものだと思っていて、日常生活の中でできる範囲で行ってきたし、今後もできることを見つけては行っていく。
20代前半までは自分のことで手いっぱいだったように思うがもう世の中のことに無関心でいたくはないし、いられない。

そのような確固たるモチベーションを持つようになったきっかけとして、今思えば5年前に突然父親が他界したことも一つの転機だったのかもしれない。
それをきっかけとして広がった世界・交友関係もある。


関係ないようで、物事はすべて繋がっている。


間違いなくこれからも自分にとって新しい分野へのチャレンジもするだろうし、少しずつ視野やスキルを広げていくことは変わりない。

それらの経験が結果的に誰かの何かの役に立つのなら本望であるし、基本的にはそのことを念頭に置き物事を展開させていくスタンスも昔から変わらない。


大きなことがしたいわけではない。

自分と、少なくとも自分と関わる身近な人達が、いつも心から笑っていられるようでありたい。

その範囲が少しでも広がっていくなら、それも嬉しいことである。


100人100旅第一弾 P244『自分の感覚を信じること』(特に終盤)に、ざっくりと伝えたいことを書いている。

今ある現実は自分が創っている。

どんな現実を創れるのか、それは自分の「状態」が鍵となる。

「心・身体・意識の状態」である。それらは別物のようで影響し合っている。

自分の心や意識が変わると見える世界もがらっと変わるが、それ以上に、「起こる出来事」まで変わってくる。

そうやってコントロールしながらおもしろおかしく生きることは、とても楽しい。

偶然などはなく、そうやって必然的に物事は起こるのだとある時気付かされた。


すべての出来事に、意味があるのだということを。


少なくとも自分にとっては、そうなのだということを。

運命だからと受け入れ、中には諦めながら生きるのもそれはそれだと思うし、そうせざるを得ないこともあるかもしれない。

でも、せっかくだから意図して変えてみよう、創ってみよう。

何かのせいにすることをやめる強さは必要かもしれない。

もちろん、自分で行動することは必要かもしれない。

でも、ますます人生が楽しく充実したものになるはずだから。

いざという時の底力や、安定した「状態」を保つためには、心身の健康に直結する日常をどう送るかで変わってくる。


食事や呼吸や睡眠を大事に、心身を冷やさない生活を。


心や身体を縛ることなく、ナチュラルに。


いつも自分の心の声を聞き、それに従う。


わくわくするような気分と、直感に従う。


どうしてそんなにいつも元気なのか、どうしてそんなにパワフルなのかとよく聞かれる。
確かに、誰か元気のない人に分けてあげたいほどに、エネルギーが溢れてくるのが自分でも分かるし
分けてあげたいほど幸せを感じて生きている。

それは、健康に産み健康に育ててくれた親のおかげもあるし、更なるそういう状態をつくり保つために、自分にとって何が必要なのか模索してきた結果でもある。

そして、そういう状態でいられることに、いつも感謝しているからでもある。

Masako Furuya



‥‥彼女との出会いは、今から半年と少し前の2010年9月。第4弾100人100旅プロジェクトの初めての顔合わせのイベントの際にお会いしたことがきっかけでした。
そのときはもちろん誰一人知り合いがいない状況で、100人100旅というものも何なのかよく分かっていなかったこともあり、
その日は「100人100旅」というものに詳しく関わっていそうな人を中心にお話させてもらったのをよく覚えています。
そんな詳しく関わっていそうな「人」の中でも特に優しく温かく接してくれたのは、紛れもなく彼女でした。
そしてまた素敵な雰囲気を持った「人」だというのも当時から感じていました。

それとは別に100旅のあの方とも何か特別なもので繋がっている雰囲気も感じていました。それはその後また知ることとなるのですが、その「人」の話はまた次の機会に。


今回、こういった機会があり、初めて知ることも多々あり、その幅広い経験や、活動にはただただ驚きで、
そしてまたその素敵な雰囲気の「核」となり「繋がり」となるモノがなんだか伝わってきました。


「今」。それはあの時から見れば8ヶ月後の「みらい」。

この100旅というものに出会い、自分が苦手だと不得意だと思っていたことと向き合い動いていくことで、あの時想像していた「みらい」とは大きく形を変え、

そうして新たな自分とも出会えた「今」。

この「場」でこういった「形」で繋がるなんて想像すらできなかった「みらい」も、「今」ここに確かに存在している。



「関係ないようで物事は全て繋がっている。」


「すべての出来事に意味がある。」


彼女が言っているように、物事が全て繋がっていて、そしてそのすべての出来事に意味があるのなら、この100旅というモノと、そして出会えた人達との「繋がり」の先に何があるのか、

それが知りたくてたまらない、と同時にその「みらい」が楽しみでワクワクしている自分が「今」ここにいる。


だから、僕も「わくわくするような気分」と「直感」に従い、「みらい」へと一歩ずつ歩んでいきます。


楽しみでワクワクする「みらい」に出会うために。


そうやって「今」と「みらい」を繋いでいけるように。

2011年4月20日水曜日

Keep smilling -笑顔は自分を幸せに、自分の幸せが満ちたとき、また誰かを幸せにする-





中居加緒里。

アクセサリー「Spica Colorido」。

青森県八戸市に中居家の4女として誕生。
上の3人の姉たちとはちょっと違った異色を放つ4女。


中学時代。はちゃめちゃにやんちゃな時期を過ごし、親に大迷惑をかける問題児。ただ、マザーテレサに刺激を受け、必死に手紙を英語で書いたり、ボランティア活動に興味を持ち始める。

高校時代。大好きな英語漬けの毎日で、まじめに学校に通う。この頃から、海外の生活が大好きになる。
高校時代に応募した、大学主催の国際協力小論文コンテストで全国2位に。

大学推薦入学、東京へ上京。

民族系のアクセサリー集めの趣味から、作ることに興味が移り、東京でもアトリエに通うようになる。
いろんな文化を見たい。旅に出たい。
それから、また海外に飛ぶことを決意。目指すはオーストラリア。
そうだ、英語をマスターすることと、自分なりにアクセサリーの勉強をしようと。渡豪。



‥‥そんなアクセサリー作りに魅せられた彼女。そこに至るきっかけと、「今」についてこう語ってくれました。


「実は、大学時代に、アメリカ留学で、救急車で運ばれて、体調不良の強制帰国になったんだ。
それで、悔しくて悔しくて、誰にも会いたくなくて、一時期は本当に外に出れなくもなった。
でも、やっぱり「英語」はあたしにとって、あきらめきれない夢だった。
不慣れな英語で書いたマザーテレサへの手紙。
彼女に約束した、貧しい人たちを助けたいという想い。
それをいつかちゃんとした行動にするために、どうしてもあきらめてはいけない夢。

もともと、好きなものが見事に繋がって、今、海外に居る。
英語も、異文化も、アクセサリー作りも・・・・
アクセサリーを通して、異文化を知る。その土地にあった、それぞれの色合いや素材が、文化を伝えてくれる。

自分がいつかボランティアをしたいといったときに、何ができるか。20代前半の時にはその答えが出なかった。
あたしに何ができるのかな。でも、何かしたい。ただ、気持ちだけが焦り。何をすればいいんだろう。ただ、焦るばかりでどうしていいか道に迷った。


そんなときに、ふとしたきっかけで、シルバーアクセサリーの教室に通うようになり、ビーズ教室にも通い始め、自分でアクセサリーを作る趣味を見つけた。

好きなことに没頭する時間。何よりも幸せな時間。

気づいたら、もう6年間も自分の好きなことを続けていた。

これだ!自分にできることって。
それは、アクセサリー作りを教えること。そして、いろんな国でその土地の伝統のアクセサリーを学ぶこと。

今は、アクセサリーとは全く無縁の語学学校で働いている。気づいたらもう4年勤務。

20代前半にあったあの焦りは今は全くない。

夢はあきらめない限りは、逃げないから。

自分が掴もうと思ったら、掴めに行けるから。

そのおかげで、ゆっくりと仕事をして、着実に自分に英語のスキルをつけられた気がする。
完璧じゃなくてもいい。ただ、困らないくらい、相手にちゃんとした自分の意思を伝えられるようになった。
マーケット調査などの15枚のレポートも仕上げられるくらいになった。きっと、今これで海外にボランティアに行ってきますと言っても、英語に対して抱いていた不安感はなくなった。

そしてアクセサリー作りの知識も増えて、日本とは違った色合いや素材を楽しみ、文化と文化の混ざり合いをアクセサリーで表現することが本当に楽しくて仕方がない。
いろんな文化が混ざり合ったシドニーは、本当にいい勉強になることが回りにごろごろある。
たくさんの友達たちのおかげで、口コミで広がって、あたしのアクセサリー、スピカコロリドを買いたいと言ってくれる人たちも増えてきた。

本当に人と人の繋がりはありがたいです。」





‥そんな彼女のこれから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。




「あたし、興味があるものが耐えないんです。

これから、新たな世界へ旅に出ます。そして、自分の夢の一つをまず叶えます。自分ができることを、また新たな土地でする。
ボランティアをして、そして、アクセサリーの勉強をする。

旅人食堂みたいな、そんな、旅人たちが集まるようなお店も持ちたい。
未来ある子供たちに、世界の状況を伝えるようなワークショップもしたい。
そして、蓄えたアクセサリー作りの知識を、いろんな人に伝えたい。

できる範囲で、自分が今立ててるこの3つの目標。
すべては、新たな世界への旅からまた始まります。

常にあたしには目標が必要なんです。それがあたしを動かすエネルギー。


「人生は1回だから、思いっきり楽しめ。」

そう背中を押してくれる両親がいるから、あたしは好きなことをしていられるんだなと本当に感謝してる。
やりたいことが尽きない。
はたから見たら、定まらないと言われるかもしれないけど、何歳になっても、いろんなことにチャレンジできる、そんなフットワークの軽い人でいたいと思います。

あたし、元気が取り柄だから、自分がこうしていろんなことにチャレンジすることで、
みんなに伝えられたらいいなーと思います。



あきらめないこと。

自分で自分を褒めてあげること。

強くあること。


そして、ありがとうと人に感謝すること。」

Kaori Nakai



‥彼女との出会いは僕が23の頃。AUSでのワーキングホリデーの生活も終わりに近づいた春のことでした。
共通の友人を通して知り合いました。
今でもよく覚えていること。かおりさんを含め、周りの人たちはみんな本当に優しくて温かかった、ということ。
ちょうどあのときは色々な出来事があり、当初の予定とは変わりシドニーへ舞い戻る形となり、心がとても不安定だった中で、その温かさに癒され、居心地の良さを感じていました。
だからきっと3年経った今も、この胸に確かに存在しているんだと感じます。

どうして人に優しく、温かく接することが出来るんだろう、と当時は不思議に思っていましたが、そこには「マザーテレサ」への想いがあったんですね。
こうやって今、初めて気付くことができました。

元気に、あきらめず、強く、自分の道を。
そしてまず自分が「笑顔」に「幸せ」に。
他の誰でもない「自分」のために。

そこから生まれる「人」のためには、その「人」にとって、心からの「喜び」や「癒し」「力」そしてそれが最高の「笑顔」となる。

これから彼女の歩いていく「道」は最高の「笑顔」の「人」で溢れる「道」へと繋がっていくのではないでしょうか、きっと。


多くの人が彼女と出会い、最高の「笑顔」が生まれていきますように。


そしてその「笑顔」の繋がりがどこまでも続いていきますように。



僕もまた多くの人に与えられた優しさや温かさで、あの頃よりも少しは優しく、温かい人になれたのかな。


そして自分自身もまた「優しさ」や「温かさ」「笑顔」を人に与えていけるように。


最高の「笑顔」の「人」で溢れる「道」を歩んでいけるように。

2011年4月16日土曜日

男はね、初めから男なわけじゃないとよ。転げまわって、ぶつかって、やっと男になれるとよ。


木下雄大。

喜多屋酒造、営業兼利き酒師。現在NY在住。

1983年11月26日。
福岡県八女市の酒蔵 喜多屋酒造の分家の次男坊として誕生。
小学校のとき逆上がりができなくて、泣きながら母ちゃんと練習をしたのが一番の思い出。

中学時代。中学時代はバスケットボール部で青春の汗を垂れ流し、トレードマークの坊主頭はこの頃から。

高校時代。友達がカナダに留学。福岡空港から泣きながら見送った時、海外へ行くという選択肢が芽生える、と同時に自分も、漠然と将来は海外へ行きたいと思い始める。

大学時代。心理学を学ぶ。ソフトボール部に入部し、酒を飲み、バイトをし友人達と遊びっぱなしの楽しさ溢れる大学生活。



実家が造り酒屋。喜多屋の営業をしている父のかっこ良さに影響され、また友人に影響され、「今」に至る彼。
大学でのこの道を選ぶことになった一つのきっかけから、今に至るまでの「繋がり」までを彼はこう語ってくれました。



「友達が世界一周をして帰ってきた。その体験談はすばらしく刺激的であった。海外へ向けられた願望が再び燃え上がった。

喜多屋酒造の隠し玉、秘密兵器。英語をたくみに操る海外営業のエキスパート・・・


カッコよか!


しかし英語力は何とも言えぬ。TOEIC300点くらいであった。海外へ行って喜多屋酒造の秘密兵器になりたい。秘密じゃなくていいが、修行したい。ということを親父に話すと、
「ほっ!アジア進出しようって考えてたから、ちょうどよか。シンガポールとか行ってみらんか?」と許しを得た。

大学を卒業し、5月にシンガポールへ出発。まずは、英語である。学生寮に入り、英語学校へ入学。先生はアメリカ人のエリック、Mrビーンにそっくりだ。何を言ってるかさっぱりわからん。
学生寮ではタイ人やベトナム人、中国人、ヨーロッパ、アジア諸国から様々なカルチャーを持った学生が集まる。モンゴル人が100人くらい入寮したときもあった。毎日、一緒にバスケをしたり、クラブへ行ったり映画観たり。
3ヵ月後退寮。寮で知り合った友人達(タイ、ベトナム、インドネシア、中国)と一緒にルームシェアして生活。3つの部屋を10人で使用していた。
ハプニングの毎日である。冷蔵庫のケーキが食べられ、私のビールは冷凍庫でカチンコチンになってたりする。
異文化が混ざり合う。
エアコンが大好きなあいつらは家に帰ると16度に設定。常夏のシンガポールはすごく寒かった・・・。その頃には英語を普通に使い始める。

習うより慣れろだ。

学校には9ヶ月通った。TOEICの練習では800点くらい。予想以上に伸びている。練習すればできるようになるもんである。長い休みはアジア旅行に使った。ベトナム、タイ、ミャンマーへ。

仕事を探しはじめる。日本食レストランに就職が決まったがビザがおりない。ビザなしでの滞在はできぬため、マレーシアとシンガポールを行ったり来たり。怪しまれた私は、いかついインド人に囲まれ別室に連れて行かれ日本に一度帰りなさい。と説教され泣く泣く帰国。実家で焼酎を作ったり、日本の酒蔵を見学してまわったり。

4ヵ月後めでたくビザがおり、またシンガポールへ。
ポジションは利き酒師。ソムリエのような仕事である。
3年半働く。そろそろ次のステップへ行こうと思い。アメリカへ行くことが決定。その前に地元の友達と2人でタイとインド旅行。ゾウに乗ったり、ガンジス川で沐浴したり、食中毒でやばいと思ったのはタイのリゾートにいたとき。スクーバの免許を取得して帰国。

そして渡米。
お酒を日本食レストランなどに配達したり営業したりする仕事。
アメリカで一人暮らし。日本食レストランや寿司バーなどに営業に行き、お酒を勧めてる。研修中でお金もないので、外に飲みにも行けず、ハーレムで買ったブルースのCDを聴きながら、家で焼酎を飲む。
近所の子供とバスケットボールをして運動しておる。」




‥そんな彼の、これから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。


「お酒の専門家として、ニューヨーク・タイムスから取材を受けること。
そして喜多屋の前掛けをして海外を飛び回る営業マン。

どうにかなると思うのではなく、俺がどうにかしてやろう。という気持ちを持つこと。

そのためにどうしてやろうか?どうなったら楽しいか?を考えるということ。

ワクワクしたほうが絶対に良い。楽しんだもん勝ち。英語バリバリの営業マンってカッコいいやろ?」



‥彼との出会いは僕がまだ大学生の頃。二つほど部屋が隣の人と彼は仲が良く、よく外の駐車場でキャッチボールをしていたのを横目で眺めてました。
学年も違えば、ゼミも同じわけでもなく、特に接点もなくて関わりはなかったのだけれど、何がきっかけで話しだしたかは思い出せません。

ただ面白い人だった。そして九州特有の話し方と大らかさと温かさがあった。きっとそこに惹かれたんだと思います。

彼が就職活動を辞めこの道を選んだこと。無理だとか現実的ではないって「周りの友達ほとんどに反対されたとよ」、と嘆いていたこと、
そして「でもお前は応援してくれて、後押してくれて、本当に嬉しかった。」と言ってくれたこと。この言葉をもらって本当に嬉しかったのは僕の方でした。今でも覚えてますか?


近くの誰かが「何かしたい」と動こうとしたときに、

「失敗するリスクを防ぐ」ことよりも、仮に失敗したとしても「失敗した後、支えとなり力となる。」

ことの方が傍にいる人のすべきことだと思ったから。
その気持ちは、数年経った今も変わらずこの胸にあります。

だから今、こんなにカズさんが輝いているのが本当に嬉しくて堪らないんです。


思い返せばあの頃。一つ上の方たちとは本当に親しくさせてもらっていて、人生で初めて人と離れるということを心から寂しく思い、
だから卒業していったその春に八女の実家まで遊びに行かせてもらいましたね。
あの数日は本当に楽しかった、そしてあのときもまた桜が咲き誇り綺麗なときでした。

あの頃が最初で最後の「人」と離れるということが悲しくて仕方がない「寂しさ」を覚えたとき。

今はもう「人」と離れたとしても、「会いたい人」「会うべき人」とはまた必ず「会う」し「会える」ということ、たくさんの人たちに教えてもらって、またそう信じています。

シンガポール、遊びに行くと言っていたのに行かなくて本当にごめんなさい。だからニューヨークは必ず行きます。

僕もカズさんに負けないように、あの頃よりも成長した姿で、輝いて、胸を張って、




そして会いに行きます。









「カズ・・・アメリカン・ドリームぜ。早く俺を楽にさせろ。」
そう真顔で言う親父を尊敬しておる。

Kazuhiro Kinoshita

2011年4月12日火曜日

桜の咲く頃に-サクラの花に想いを込めて-


佐藤 峻。

現料理人。桜人。


桜。

日本を代表する花。

平和も意味する花。

戦争で対戦国に送られた木・・・桜の木。 

染色家志村ふくみは綺麗なピンク色を彩る。

それは桜から開花の前の木の樹脂を取り、そこから美しいピンク色が染めわたる、あのゴツゴツした部分から。

桜は木全体でピンクになろうとしていた、ということ。 

木全体で頑張って花だけがピンク色の花を咲かせる、ということ。  


努力もきっとそんなもの。 
目に見えるのはほんの少し。 でもそれが人の心に響き、感動し、社会を動かす。
有名人達も目に触れるのは、彼らのほんの一部分。
ほんのひとかけらの花びらのために全身全霊をかける。
だからこそ美しい。
見えないものが見えるものを支えている。

桜=PASSION。

絶対に「桜」咲かせます。

Shun.


現在オーストラリアで料理人として激動の日々を過ごしています。

何ヶ月も何ヶ月も休まずに、一日中朝から晩まで働く日々。
過度のストレスにより激痩せしたことも、命とも言える右手の疲労骨折が生じたことも、心身共に健康でありたければ今の仕事を辞めろ、と医師に宣告されたこともあった、そんな日々。
ここには書ききれないほどの、この3~4年に及ぶオーストラリア生活での中で、たくさんの「苦しみ」や「悩み」「痛み」が、彼にはありました。

超特急で走り続ける彼。その彼をそこまで駆り立てるものは何なのか。




これは過去から今へと繋がる物語。そして広い世界でたった一つの物語。

その物語と、彼の「想い」を語ってくれました。



「高校まで過ごした仙台の町。

「誰よりもでかくなる。」昔からの自分に対しての言葉。

本当は美容師、もしくはファション関係、芸能関係がやりたかったけれど、 自分の親父が料理人だから料理を始めた。でも一生料理人で終わらせるつもりもない。

実は俺、母親の連れ子で今の兄弟は今の親父の子供。俺は本当の親父を知らないんだ。
昔やんちゃだった頃、親父の店を潰すようなことをしてしまったことがある。
そこからかな、仲が悪くなったのは。今では仲は良いんだけどさ。

それで俺の中での親孝行が自分の料理の店を出すこと。俺は本当にあんたの息子なんだぞっていう証拠をみせたいんだ。

今でも親に言うのが俺があんたの店を今度は違う形で潰すからと、笑いながら毎回言うんだよ。

だから自分がやりたいことはその後。 

でもそのためにはすごく努力したんだ。まずは自分の店出さなきゃいけないから中途半端なことはできない。
朝から晩まで料理。周りと同じことをやってたら間に合わないからさ。

経験と情熱だけは人には負けない。
本来の仕事は朝8時から夜12時。これは東京にいた頃もオーストラリアでも一緒で2時間早く行くのは自分の中で当たり前なんだ。それがどのポジョンだろうとも。 東京での生活が一番辛かったかな。

それ以外に魚を勉強したい、と思い、仕事前に朝4時から7時半まで無賃で、魚をさばかせてくださいとお願いして週3日は行った。
別の日は夜は12時に終わってから自分の名前を売るために、飴細工の練習をしに仕事が終わってから別のレストランで始発まで練習をしに行ったりしてた。 
休みの日は病院で点滴うったり他のレストランに研修行ったりで1番しんどかったけど1番笑ってた時期だった。
気付いたら仕事が遊びで、遊びが仕事になってたんだ。

ましてやレストランなんて給料低い中、勉強のためにレストラン食べに行ったりでお金は無くてさ。好きな洋服とかも買えなかったり。

でもね当時は洋服も困らなかったんだ。見てくれてる人は見てくれている。
自然と人が寄ってきてさ、自分が洋服好きだから、そうするとどんどんアパレル関係や業界人と仲良くなっていってたな。

当時はまだ有名じゃなかったモデルやアパレル関係の友人も給料少ないから、俺が休みの日に何か作って練習もかねて持って行ってあげるんだ。そうすると築いた「family」みたいになってて、そこの上のbossとかにも気に入られ、新作会とかさ、呼ばれたり買い物も全部40%offだったりサンプルを無料でもらったりしてさ。

そのときからかな。「人間やることやってれば人は見てる」、という言葉を知ったのは。
だから「料理の鉄人」とかも出れたり、漫画家「おいしんぼ」雁屋さんと食事もできるようになったり業界人達とかと会えたりできるようになったかな。


「人生は 4回ある。」ココ・シャネル。 

自分は5回ある。
今は2回目。料理だけでは終わらない。ちゃんと全部情熱をもってやる。

「夢」っていろんな人に聞かれるんだ。でも俺って「夢」はない。
それは俺の中で現実だから。絶対にやることだから。「夢」ではないんだ。

自分の店を出す。親父の店をつぶす。自分のブランドを持つ。アトリエ。会社。これ全部現実。
だから夢はない。今の自分は昔思ってた自分だから。だから人生面白いんだ。


情熱を持ち、やることやってれば人は必ず見ている。  


「夢を叶えるのがわが人生」  と書きなぐった20歳の時。 

『歴史に名を残す男になるのだ』と、普通の人生とは決別し、諦めることを諦めたあの日。 

そのときに入れた初の墨、Bad My Way= 狂った道。自分の道。 

決めたコトは何があろうと、必ずやり抜く。こうすると決めたら、突っ走る。

誰よりも努力し、誰よりも大きな夢を抱き、誰が何と言おうと諦めず、

誰よりも前に前に進んでいく。

明日のために 来月のために 来年のために 10年後のために・・・」



彼との出会いは2007年の夏。オーストラリア、シドニーにて。
一つ屋根の下どころか、同じ部屋の下でフランス人のDavidと3人でのシェア、シェアメイトでした。

初めて会った日。俺が初めて入居した日。
夜も遅かったけれど、人なつっこく話かけてくれて、PCを見ながら話してたらオーナーに怒られたっけ。今でもはっきり覚えています。

毎日毎日、朝も早く出かけ、夜遅く帰ってくる。
シティど真ん中のタワーの部屋のベランダでいっぱい話をし、酒を交わし、見た目に似合わずビリヤードが本当に下手だったこと、今ではもう上手くなったのか?あとここでは言えないようなこともあったっけ。

なんでだろう、数年経った今でもあの頃の日々は鮮明に覚えているんだ。
本当に楽しかったんだ。

26年間。その中のたった1ヶ月。

自分の中で今も輝いている1ヶ月。そしてきっとこれからも。

まだ何が大切かも、自分が何がしたいのかもよく分からなかったあの頃。
時を経て少しずつ分かってきた気がするよ、成長が遅いと怒られるかな。

多くの人と繋がりがある中、一番「頑張れ」という言葉を言えない「人」。
頑張らなきゃいけないのは俺の方だから。

いつか会う、そのときにまた胸を張って会えるように。


長い間、ずっとどうしてそんなに「体」や「心」をこわしてもなお、走り続けていられるのか、そして走り続けるのか、俺にはどうしても分からなかった。

でも今ようやく分かった気がします。

「自分」のために。そこに「人」のためへの「想い」が詰まれば詰まるほど「人」ってこんなに強くなれるんだって。

それが「力」となり、それが本当の「強さ」の意味なら俺も「強く」生きていける、きっと。



日本では今きれいな桜が咲き誇っています。人々の心を桜色に温かく、そして輝かせるように。


その「情熱」の「桜」がたくさんのたくさんの人の心に響き、感動を与え、その「心」にもまた綺麗な桜が咲きますように。


その周りにもまた、綺麗に輝く「桜」で咲き誇りますように。



人々の心にずっと咲き続ける桜のように。いつまでも。




Dear Family

俺はいろんな国、もちろん日本の友にも 貸しがある。相談乗ったりしてあげたりアドバイスしてあげたり、俺はそのたびに言うんだ。いくら小さな貸しでもちゃんと返せ,と。  
それは相手がどこの国に居ようと俺が出した店には最低1回食べに来いと。俺は1店舗目は仙台で出すからさ!! 

今回自分の友達がphotobookを出すことになりました。from NYです。この売り上げは全部寄付にまわり、このphotobookも被災地に届けられます。

これは僕の家族が家族に向けての言葉です。 

FAMILY to FAMILY.... pray 4 japan

もしよければ協力してください。どの写真が使われるかわかりませんが最低でも2000枚は欲しいそうです。

条件として最高の表情で!!相手に伝わるようメッセージを!!

わかるよね??絶対に下向いちゃダメなんだよ!!!

写真付きでメールください。shuna3faith@hotmail.com

辛いかもしれないけど 笑ってください。もしあなたAが笑えば周りのBとCも笑います。BとCが笑えばDとEも笑います!

これは感染します。だから下を向かないで笑ってください。


こないだ日本大使館から連絡が来ました。

シドニー領事館 総領事小原様から

"3月11日に発生した地震と津波により甚大な被害を見舞われた日本では、家族を亡くし、友人を亡くし、家や財産をなくした人たちが苦境と悲しみの中で懸命に生き抜こうとされています。
そうした人々に思いを寄せ、手を差し伸べてあげたい。そんな気持ちがここシドニーで広がっています。
このチャリティーディナーもそうした思いを込めた活動です。多くの方々の思いや支援が被災地に届くことを願っています。"

まだ参加できるかわからないけどもし参加できるとしたら、頑張ってきます。

今みんなが日本の事を思っています。だから頑張ってください。

いっぱい笑ってください。たぶん次逢うときはみんなたくましい顔になってると思います。目が違うと思います。 自分もそれに負けないように頑張ります。
ますはいっぱい笑ってください。

plz big smile. just do it   Shun

2011年4月10日日曜日

最後は情熱がモノを言う。



山岡絵奈。

つけ麺屋店長。

広告代理店営業、WEBコンサルティングを経て、現在は飲食事業を主に展開する企業に就く。
この会社には管理本部スタッフとして、営業、人事、新店舗開発、店舗管理として入社。
が、現場のつけ麺屋に人がおらず、気がついたら1店舗の店長に。

広告代理店営業を5年間経験して、その時のお客様が今の会社の社長である。
お客様として色々なビジネスのお話をしている内に、社長に惹かれての転職。
当時はまだ3店舗しかなく、5年で20店舗にしたいというビジョンに共感して「やってやろうじゃん!」と。

現在、つけ麺屋にて、
なんで自分はつけ麺作ってるんだ・・・?とたまに思いつつも、女性であるのにも関わらず、朝から晩まで立ち仕事、重たい寸胴鍋を運ぶ体力仕事により、腕の筋肉が順調に育っている、とのこと。



‥そんな素敵な彼女のこれから目指すもの、夢、そして伝えたいこととは。


「とりあえず、今のお店を全国のお客様に知ってもらいたい!1杯に命かけて作ってるから!!
もっと遠い先の夢は、大好きな地元で小さな喫茶店を開くこと。母親が、コーヒーが好きだから、母親がくつろげる場所を作りたい。ただそれだけ。
そして、人生はどこでどんな出会いがあるか分からないけど、与えられた環境で、自分も自分の周りにいる人もよりプラスな方向へ向かっていけることが本当に幸せなこと。」



‥彼女との出会いは、約1年半ほど前の夏。僕がまだ伊豆のホテルで働いていた頃に夏休みの短期スタッフとして来たことがきっかけでした。
女の子らしい見た目とは裏腹に、活発で行動力のあるところがとても印象的で、毎日を楽しそうに、自分のペースで元気に過ごしていたような、そんな感じをうけました。

「最後は情熱がモノを言う。」彼女の好きな言葉。
社長の「情熱」に惹かれての、きっと想像すらしていなかったであろう、つけ麺屋店長という転職。

どんな正しい「理論」や「理屈」よりも、たった一つの「情熱」が心を激しく揺さぶり、心に響きわたる。

賢い「冷静」さよりも、本当に最後の最後にモノを言うのは、きっと「バカ」でも良い、「情熱」だと。

人生は本当にどこでどんな出会いがあるのか分からない。
何気なく特に大きく変わることなく過ぎていく日々を繰り返していく中で、その出会いがいつ訪れるのか、それは誰にも分からない。
でもそれはもしかしたら、「明日」なのかもしれない。

そう思いながら生きていく毎日は、いつもの日常に、きっともっと鮮やかな「色」が付け足されてキラキラと輝いていくのではないでしょうか。

そしてそのキラキラが、また新たな大きな出会いを呼んできてくれるかもしれない。

なんだかそう思うと毎日、毎日が楽しく思えてなりません。

どこかでそんな出会いが訪れるなら。彼女がそうであったように。


「情熱」をもってキラキラ輝いていることの大切さ、なんだか彼女に改めて感じさせてもらった気がします。

だから明日も鮮やかな「色」で自分を包んで一日過ごせるように。

どこかで出会うはずの素敵な「出会い」のために。





最後に彼女から「お客様に伝えたいこと」「一緒に働くスタッフに伝えたいこと」

「数ある飲食店の中からうちの店を選んで頂いて、わざわざ足を運んで頂ける事に感謝のキモチを伝えたいな。

私、超美味しいラーメンを極めたいっていうキモチよりもサービスを交えて、あったかいキモチになれるお店にしたいっていうキモチのほうが強いから、もしかしたらこの仕事向いてないのかも?もちろん美味しいって言ってもらえたら嬉しいけど、キモチの良い接客のお店だったなって思ってもらえたら幸せだな。

お客様に喜んでほしいから、だからラーメンを極めるんだ。」



「一緒に働く時間は人生のほんの少しの時間だけど、働いてお金をもらうという事ではなく、
働いて、お金以外に得られる大切な事を伝えたいな。誰かの為に、一生懸命働く事は、楽しくて、嬉しくて、幸せなんだよって。

アルバイトって、やっぱり楽して稼げるほうが楽しい。でも、同じ時給でも、一生懸命働いて貰えたお金ってうれしいし、やりがいが生まれる。お客様に、名前を覚えてもらったり、「感じいいね!」って言われたら
絶対うれしい。一緒に働く仲間に、「ありがとう」とか「がんばってるね」って言われたらちょっと恥ずかしいけど絶対にうれしいからさ。」

皆さんに感謝の気持ちを込めて‥‥

Ena Yamaoka

2011年4月6日水曜日

だからあなたが死ぬときは、あなたが笑ってまわりの人が泣くような、そんな人生を送りなさい。



野村実里。

青年海外協力隊員。
現在、中央アジアのキルギス共和国にて、一村一品プロジェクトとともに
村の女性たちとナチュラルハーブ石鹸の開発&販売に携わっている。

小学生の頃からの口癖は「大きくなったら留学する!」。

中学・高校と狂ったようにテニスにはまり、

大学1年の時に行ったハワイで、プロサーファーの夢を追いかける少年と出会い、
「お前にぴったりの本がある。とにかく読め!」と勧められた 高橋歩 の本。

その頃から、外国や旅の魅力に本気でとりつかれ中国に乗り込む事を決意。

中国滞在中も中国国内、周辺国をふらふらさまよい、様々な人間に出会い、自分なりの価値観を見出す。

帰国後、国際商学を学んだ大学を卒業し、大阪本町で、中国人社長と松茸やなまこを売る仕事を始める。

日本社会で3年間働いて、ある程度社会人としての力がついたら協力隊になろうという思いがあったため、迷わず応募。その勢いで合格。



‥彼女との出会いは高校生のときでした。彼女が夢中になっていたテニス。時を同じくして僕もまた同様にテニスに夢中になっていた懐かしいあの頃。
その頃から、持ち前の「明るさ」や「優しさ」。「努力」「根性」「行動力」は他より群を抜いていたように思えます。
そんな彼女が、なぜ青年海外協力隊員になろうと思ったのか。



「色んな国を旅してる中で、旅人は一過性の外国人にしか過ぎず、そこに暮らす人々と交流はできるものの、時間や言葉の制約がある以上、ものすごく深くは関われない。
「学生」や「旅人」という立場ではなく、一週間や一カ月という期間ではなく、2年間ひとつの国にどっぷりつかり、そこの言葉を覚え、文化や歴史を学び、腰を据えて現地の人々と関る「仕事人」として、自分がどこまで通用するのかを知りたかったから。協力隊というのがその時の自分にぴったり当てはまった。



‥現在も活動中の彼女。現在の状況も語ってくれました。



キルギスの東の果て、舗装もされていないガタガタ道をずーーーーーっと進んでいったところに、今の活動先タスマ村がある。

2010年5月赴任。一年間がむしゃらにやってきて、石鹸組織は安定した収入を生み出せるようになった。

お風呂なし、停電はしょっちゅう、井戸水はなせか二日に一回しか出ないという生活。
でも、超シンプルで愛にあふれた生活。
ケンカもいっぱいしたが、いつも自分をほっといてくれない。根にもたない。ケンカしてもすぐケロッと仲直り。超家族想い。
なまけものと見せかけて、実は働き者(女性は特に)。男性はほぼ100%馬に乗れ、すごくかっこええ!
「クダイブユルサ(神様の思し召しがあるならば)」 が口癖。
なんちゃってイスラム教で、酒も飲めば、ブタも食う!
村人との関係はいたって良好。

キルギスで古くから伝わる「伝説の石鹸~シャカルサムン~」の復活も果たし、現在、この失われかけている口承文化を何らかの形として残すべく、奔走している。

キルギスは91年まで旧ソ連の国だったため、公用語においても、母国語であるキルギス語にロシア語が混ざり、キルギス人アイデンティティーが弱く感じられる。
そんな中、シャカルサムンの口承文化の復活により、キルギス人アイデンティティーの強化を図るという目標もある。任期は残り9カ月。



‥そんなキルギスで今もなお奔走している彼女。これから目指すもの、「夢」とは。
そして伝えたい「想い」とは。



開発の世界は協力隊が初めてで、何の基礎知識もなかったが、自分なりに精いっぱい勉強し活動しているつもりだ。
この2年間、がむしゃらにやってきた事は、開発学の観点ではどういう風にとらえられるのか。
開発学というものを体系的に学びたい、また自分がしてきた活動に、学問的な意味づけをしたい、という思いで、「女性と開発学」の修士号取得を目指したいと考えている。

その後は何らかの形で、今までお世話になった国々とつながっていられる仕事に就きたい。

そんな仕事がなければ自分で作る。もちろん結婚して子供も産む!
仕事とママ業、なんとかこなして食っていける方法をこれから考えます!
それはまたその時、仏様が導いてくれるでしょう!


キルギス人に限らず、日本人でも、中国人でも、初めて関わる人のいいところを見つめていきたい。

所詮人間という動物なんやから、悪いところも良いところもあって当然!

じゃぁその人の良いところを見て、その人をどんどん好きになって行こうぜっ!!!!

                         Misato Nomura.



高校を卒業し、早いもので約8年。彼女が帰国する頃には、10年目。

長い年月を経て「変わっていくモノ」そして「変わらないモノ」。そうして今の自分がいる。

8年前。彼女の持っていた「明るさ」や「優しさ」。「努力」「根性」「行動力」は8年経った今も変わらず、むしろ輝きを増していっているように感じます。

きっとそれは「昔」は良かった、と嘆くのではなく、
「今」と一生懸命向き合い、「人生」を楽しんで、
明るい「未来」へと前を向いて一歩一歩、進んでいるからなのではないでしょうか。

あの頃から人一倍笑っていた彼女。
だからきっと「笑顔」もパワーアップして、多くのキルギスの人たちを「笑顔」に変えていっているはずです。
「笑顔」の「繋がり」を。


そんな僕自身も彼女から、この「力」のある明るいメッセージに「笑顔」と「力」をもらえました。

「笑顔」の「力」で僕も彼女のように、

「周り」と「自分自身」を「笑顔」に、


そして明るく前へ進んでいけるように。



最後に彼女から~ネイティブアメリカンの教え~より。



あなたが生まれた時は、


まわりの人は笑って、


あなたは泣いていたでしょう。


だからあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、


まわりの人が泣くような


そんな人生を送りなさい。

2011年4月3日日曜日

百聞は一見に如かず-世界と料理に生きる南極料理人の歩む道ー




篠原洋一。

1962年札幌生まれ、高校卒業後板前の世界に入る。

札幌の割烹から20歳で東京の割烹に転勤し数店で修業。



1991年29歳で「第33次南極観測隊」越冬調理隊員で参加。

1993年帰国し客船「飛鳥」と「飛鳥2」に14年乗船、
世界9周して約70カ国200都市を巡る。

2008年47歳で再び「第50次南極観測隊」越冬調理で参加。

2010年帰国後横浜関内吉田町に
クルーズ・トラベル・コミニュケーション・バー「Mirai」
と言うダイニングバーを開店、現在に至る。
HP→http://travelbar-mirai.com/

彼との出会いは、100人100旅本プロジェクト第4弾。
HP→http://tabibana100.com/
地球に恋した旅人たち 大地編に著者として参加されています。

南極に行かれたきっかけは北大の教授さんに、オーロラの話を聞いて どうしても見たくなったそうです。

昨年9月の開店から半年。大震災による飲食店関連への影響により、お店を取り巻く環境はきびしいですが
いろんなイベントをやって乗り切りたいと思い、 その1弾が先日27日に行われた、「南極よもやま話」(毎月一回はやってます) そして4月1日からは「日本の四大客船絵画展」を行います。
これからもイベントをたくさんしてお店を盛り上げていきたいと語る篠原さん。


2009年 6月7日 南極観測隊料理人 篠原洋一として「情熱大陸」にも出演されています。


僕自身、実はこのOAされた回はたまたまテレビで見ていました。
だから初めてお会いしたときも勝手ながらどこかでお会いしたような気がして。



情熱大陸。大陸をまたぎ、自分のありったけの情熱を注ぐ、まさに情熱大陸そのままの生き方。
夢を追い、叶え、自分の道を貫き突き進む人生。
同じ男として「男の生き方」というのを多々学べ教えられ、本当に尊敬できる男の中の男。


今、大震災による「酒」の会の自粛、計画停電による帰宅できるかの心配等により飲食業界が深刻な影響をうけています。

一生懸命、今を「楽しむ」こと。それもまた自分たちにできること、いや自分たちのすべきことなのではないかと個人的に感じます。

震災により亡くなられた方たちへ、自分たちが個々でできることといえば「生きる」ということに一生懸命になるということなのではないでしょうか。「今」も。そして「みらい」も。

このことは今の職場をとおしても身をもって学び感じさせてもらっています。

今、辛い状況下に置かれている方たちに対しても、どんなに頑張っても我が身にならなければ全く同じ気持ちにはなれないのだから、今、自分のすべきことをする、それは一生懸命「楽しむ」ということも決して例外ではないはずです。

一つの個人の「店」が開かれるまで。
そこにはどんな作りモノのテレビドラマや映画よりも「一人」の深い背景と物語がある。
そして大きな「夢」がつまっている。
そんな物語を、一度その「目」で「耳」で感じてきて欲しい。
あたたかな人柄と、強い生き方に触れてきてほしい。


感動を 集めて集え 世界から


篠原さんのこの言葉のように、たくさんの「想い」が集まるような「場」。
きっとMiraiはそんな、受け入れてくれる「温かさ」と次へと向かって送りだしてくれる「刺激」を合わせもった「場」、「Home」のように。


みらいへと 希望をのせて


これを読んでくださった方々が「希望」や「感動」の「想い」をみらいへと届けてくれますように。



僕もまた届けに行かせてもらいます。「夢」と「希望」と。そして素敵な「人」と「笑顔」とともに。