2011年9月7日水曜日

人生進んだ方が前!

山下 諒子。

名古屋栄養専門学校教員・栄養士。

愛知県豊橋市出身。
高校卒業後、地元の調理師専門学校の夜間部に入学。昼間はレストランで働きながら、2年間調理師の勉強をする。
在学中、栄養士の仕事に興味を持ち、卒業後は2年間現在勤務している栄養士の専門学校に入学する。
社会人になり、更に調理場を経験したいと考え、2店舗の料理屋に勤務する。
卒業から3年が経ち、母校である栄養専門学校の教員となる。


‥料理をはじめたきっかけ。彼女はこう語ってくれました。

私にとって最初の料理の師匠は、祖母であった。
4人兄弟の3番目である私は、幼い頃の遊び相手といえば両親よりも兄弟よりも、祖父母であった。
祖父と遊ぶときには、庭で大工仕事のジャマをしたり、畑に行き野菜や花を採ったり。散歩をしたり。
祖母と遊ぶときには、決まって料理のジャマをしていた。
きっと中には、子供は危ないからキッチンには入ってはいけないという家庭もたくさんあるだろうと思う。しかし祖母は、

「台所は御勝手(おかって)と言って、女の人が勝手にしていい所なのよ!」

と教えてくれた。女の子なのだから、どんどん御勝手に入りなさいと。
多分私は、保育園に通うころには、包丁を握っていたと思う。
器用な方ではないのできっと上達は早くなかったが、すごく楽しかった。今思えば私は祖母から、料理をするうえで一番大切な、食べ物を粗末にしてはいけないということや、食べる人のことを想って料理を作ることを学んでいた。
そんな家庭環境のおかげで、料理は幼い頃から身近で、なんの抵抗もないことであった。
しかし、料理人になろうなんて微塵も思っていなかった。

13歳の頃。4人兄弟のうちの、2番目の兄を亡くした。先天性の重い心臓病だった。
彼は16年の、短い生涯だったが、人の一生分よく笑っていたと思う。
それくらい明るい人だった。
兄が亡くなったとき、13歳だった私は泣いてばかりで何もできなかった。
その頃から、

“人の命を助けるために、役に立てる仕事がしたい”

と、漠然と思っていた。

そんな時を経て高校を卒業。縁あって調理師専門学校の夜間部に入学した。
様々な経歴を持った人達がクラスメイトだった。60歳を超えた人や、早朝から市場で働いている人達が夜遅くまで、眠い目をこすりながら一生懸命勉強していた。
私はそれまで、学校は嫌いだった。人付き合いも苦手だった。きっと自分も、好きじゃなかった。
そんな自分が改めてやりたいことに出逢い、刺激を受ける仲間に出逢い、少しずつ変わっていった。

“やりたいことをやるのに、年齢は関係ない”

この2年間で学んだことのひとつ。今でも強く思っている。

“もっと勉強がしたい”

勉強嫌いな私が初めてそう思った。
スキルアップのため、栄養士を志し、進学することにした。

女性である自分が、料理を通して人の役に立てること。

美味しいだけでなく、体に良いものを作れる人であること。

それを必要な人に教えられる人で在れること。

生涯働く人で、あり続けること。


そして‥夢を叶えること。


その為に必要な勉強だった。

それから今に至るまでの5年半。名古屋で、というよりは日本中に、たくさんの仲間ができた。

今年4月からは母校である名古屋栄養専門学校の教員となった。
包丁も持ったことのない生徒から、主婦、何年も料理人をやってきた生徒もいる。
皆目指しているところは同じなので、不思議と仲が良い。
“先生”という枠にはいるが、そう呼ばれなくてもいいと思っている。
敬られるよりも、生徒の身近にいて、技術や知識だけでなく、少しでも料理の楽しさや必要性を教えられる存在でありたい。
楽しい学校だったなぁ!と思えるほんの一部分にでもなれたらそれですごく嬉しい。
そして若い学生だけでなく、いくつになっても夢を持ってほしい。



‥そんな彼女のこれから目指すもの、夢とは。



来年の春、フランスに留学しようと頑張っている。
洋食屋で働いていた経験から、ヨーロッパを経験している人達にたくさん出逢い、また料理も色んなものがあることを自分の五感を通して知った。
なぜ行きたいのかと言われたら、単純な答えしか出てこないが。

“本物が見たい!”

そして、海外で生活するという経験の中で、人として成長できたらいいと思う。
それから、生きられなかった兄弟の分まで、周りも自分も幸せになりたい。
大きな世界を見てまわりたい。

帰国したら、料理教室を持ちたい。食べ物だけで病気を治すのは難しいが、病気にならないための食事はすることができる。命を落とさなくて済む人に、体にやさしい食事をしてほしい。



‥彼女とは先月の愛知県での仲間達の集いでも共に過ごし、またこのブログでも何度も紹介している100人100旅での自分にとって最初の集まりのときに出会いました。
早いものであれから1年が経とうとしています。
あの頃からの1年後。
今こういった形で繋がっているとは全く想像していませんでした。

思いやりに溢れ、「人」を大切にする「人」。

真っ直ぐで凛とした強さの持った「目」。
その「目」が抱え、見つめ、伝えたいこと。
今こうやって、少しだけだけど感じることができた気がします。


“人は人で磨かれる。”

彼女のこの好きな言葉のように、彼女自身も人で磨かれ、だからきっとあんなに素敵に目が輝いているのだと。


そして僕自身もまたこれから先、人に磨かれ、目に輝きを増していく人で在れるように。




そんな彼女から最後に伝えたいこと。

単純な性格なので、すごいと思った人や大好きな人の影響をすごく受けてしまう。
100旅の仲間からも、物凄い刺激や楽しさをもらっている。
人生って出逢い。周りの全ての人達のおかげで今の自分があることに、とても感謝しています。

“人は人で磨かれる。”


“人生進んだ方が前!!!!!”

Rin Yamashita.

2011年8月14日日曜日

何かをやって時間を損するということは絶対ない。貧乏旅をすれば大学を二つ出たようなものだ。

渡辺沙綾香。

世界一周旅立ち人。

高校卒業後、小さいころからの夢だったヘアメイクの学校に通うため、上京資金、学費を貯めるためバイトに明け暮れる。

22歳。春。上京。

ヘアメイクの学校に通いながら事務所に所属。アシスタントとして働く。憧れていた世界が少しずつ崩れてくのを感じた。それでも負けるわけにはいかないと意地になって働いた。

そんな中、過労で倒れる。

お金もない、余裕もない、情熱もなくなった。
私には当然のようにヘアメイクになれるという強い志があった。だから地元のバイトだらけの日々を続けられた。それを諦めるか、続けるか、その選択肢が自分の中で生まれることにすら少しの恐怖を感じた。
今でも人生最大の挫折だと思っている。
私はこのころ私自身のことがすごく嫌いだった。「思い描いていた夢はただの理想で、結局、自分は達成できるだけの努力もできない人間なのか」ネガティブな感情が抑えられなかった。

そんなとき、手にしていたお金を全部持ってタイに飛んだ。

初一人旅のタイ。世界は広いんだと自然に力が抜ける感じがした。
何もやる気が起きなかった私を引っ張りあげてくれたのは、タイの空や風や知り合う旅人だった。

そしてこの旅が自分の人生の、一つの転機となったのかもしれない。

世界一周、長旅をしたいと思ったきっかけは単純で、もっと世界を見たいから、ちゃんと自分の目で見て、感じて、笑いたいから。人を成長させるのは自分の環境と出会う人なのだと思う。
私は旅に対して何かを求めているわけでもなくて、ただ単純に人生を楽しみたい。
「人生は自分で変えられる。」そんなことが書いてある自己啓発本が世の中にはいっぱいあるけれど
「変えられる」っていうよりも「変わって行く」ってことなんじゃないかなって思う。
過去の点と点をつなげて、未来への道が構築される。その点が経験であっていろんな経験をするごとに、道は少しずつ自然に変わっていくんじゃないかな。
私は今の自分を変えられるなんて思っていない。ただ自然に変わればいいと思う。変われたらそんなにステキなことはないと思う。

そして現在。
構想3年 必死で資金を貯めました。8月末 、待望の世界一周へ旅立ちます。

「2年間の世界一周へ行く」と言うとたまに「すごいね」って言われたりする。でもそれは私が特別すごいわけじゃない。ただ情熱が消えなかっただけだ。何か特別にできることがあるわけじゃない。そんな私は日々ひたすらバイトばっかりしていた。体調不良も見てみないふりをした。ストレス過多で常に涙ぐんでいても耐えた。限界のハードルを自分であげた。そのハードルに限界を決めたら負けだと思ったから。人とかかわることも避けてた。

それでもある程度、資金が貯まり、終わってみると、私の世界一周を自分のことのようにわくわくしてくれる人がいつのまにか増えている。なんて幸せなんだろう。

強い情熱を持ってすればなんだってやれる。その情熱が強ければ強いほど周囲の人だって巻き込めるのだ。
この3年で身に付いたこの志は、私がこれから生きてく上で常に根底におくものになるだろう。

旅を終えて帰ってきた自分。以前は想像するのもイヤだった。ただ出発間際の今になってみると帰ってきた自分が楽しみでしょうがないのだ。

ひたすら目指していたもの、夢 それがもうすぐ叶う。
そのあとに何を目指そうか、この旅路でみつけられればいいとひたすら思う。



‥‥彼女との出会いは100人100旅http://tabibana100.com/

住む町も共に高円寺。高円寺の町のように自分自身をかざったりするわけでもかっこつけるわけでもなく、人間味のある、「人」の「情」に溢れる「人」。

これから旅立つ2年の旅路には、多くの出会いや別れ、数え切れないほどの嬉しいことや楽しいこと、悲しいことや辛いこと、そして幸せなこと、が訪れることだろうと思います。
でもきっとどんなことも持ち前の根性で乗り越え、そして持ち前のその温かい人柄はさらに輝きを増していくのだろうと思います。

そんな彼女の旅路は彼女自身が作成したHPで見守ることができます。http://hibitabichu.com/


長く「旅」をしていると一人だと感じるときもあるかもしれない。
でもそんなときはこうやってHPを訪れ、元気にしているかどうかを見守っている多くの人たちが在ることを忘れないでほしい、そう感じます。

彼女の旅が、大きな果てしない青い空と、優しい風、そして温かい「人」に包まれている、そんな「旅」でありますように。



‥最後に彼女の好きな言葉。

10年後にはきっと、せめて10年でいいからもどってやり直したいと思っているのだろう。

今やり直せよ。未来を。

10年後か、20年後か、50年後からもどってきたんだよ今。

Sayaka Watanabe.

2011年7月6日水曜日

幸せは、いつも自分の中にある。

吉井綾子。

ワイヤーアクセサリーrurinco
http://ameblo.jp/rurinco-wire-art/
S56年10月9日群馬県で生まれる。
幼少時代、膝関節の先天性変形にて走るとよく転んだことから運動が苦手で、一人でイラスト、人形の洋服製作を行う。

小、中学生、いじめられてますますこもり、唯一の自己表現である絵を武器に漫画家を目指す。が、お小遣いが少ないことで画材購入ができず投稿を断念。

高校、演劇部で衣装、ヘアメイク、音響担当している頃、お祭りの的屋をヒントにワイヤークラフトを自己流で開始。

金銭問題と将来性を考え、美術系の進学を断念し看護師を目指す。看護学生でバンド活動にハマる。

'03~'09年、栃木県内の大学病院勤務。
'04年~ 兄の影響で看護師と平行して事業を始める。
'09~'11年、東京都内の専門病院勤務。
'11年5月、看護師10年目で退職。
ワイヤーアクセサリー製作販売を本格的に開始。

好きなことたち。

*写真* 目の前にある日常から、物語を感じる世界を切り取るのが好き。

*陶芸* 自分で作った食器での食卓は格別。

*音楽* 学生時代でギターとベース、両手首腱鞘炎となり中途半端に散る。

*出会い* 新しい人との出会いは多くを学ぶ。
出会いには意味があって、出会うべくして出会ってると思う。

*旅* 旅行じゃなくて、旅。いろんな文化に触れて、たくさん感動したい。

*サプライズ* 形あるものはいつかなくなる。
記憶にダメージを残すくらい衝撃的なサプライズが、最高のプレゼントだと思う。
サプライズは感動と喜びがいっぱい。だから好き。

*ファミリー* 私を育ててくれた家族と「私」を引き出してくれたファミリー。

私に関わってくれたすべての人に感謝してその恩を返しながら生きてく、

これが私らしい人生の目的なんじゃないかと思う今日この頃。



‥‥そんな彼女の伝えたいこと、これから目指すものとは。

「すごいことは、あっさり起きる。」
チャレンジすることで人生が変化していくことを、身をもって伝えて生きたい。

アクセサリー製作を通して、新たな出会いを広げながら
「あやこに会って、人生が変わった。」 と、人の記憶に残るような生き方を追求している。

※委託販売・店舗紹介

<吉祥寺>
SUNFACE leather craft
http:// www.sun face-lc .com/
<下北沢>
素今歩 sukonbu
http:// sukonbu .petit. cc/
(時計屋側 通路から2列目上段)

mixiキーワード:ワイヤーアート あやこ
twitter:ayako37y
Facebook:ayako yoshii



‥‥元看護師の彼女。その「想い」がたくさん詰まった約2ヶ月ほど前の文章をそのまま掲載させて頂きます。


今日掃除をしていたら、足利銀行の封筒が出てきた。
看護師一年目の時に患者さんからいただいた花の種が入った宝物。

中にメモ用紙が入ってて、私の字なのに思い出すのに時間がかかった。

ずらりと書かれた数十名の患者さんの名前と言葉。
 
「看護師さん、むいてるよ」
「一番笑顔が印象的だった」
「優しい声をしてて安心できた」
「点滴のたびに声をかけてくれて嬉しかった」
「また来ますって言われると嬉しいです」

たくさん、「頑張ってください」と書いてあって 涙があふれてきた。

一年目、直属の先輩のターゲットとされて毎日つらくて、
主任や先輩から、看護師は向いていない、いつか人を殺すといわれ、
怖くて、不安で、ベランダから飛ぼうとまで思ったあの頃。

自分を保つのに必死で、 支えは患者さんの言葉だった。

けなげに患者さんからもらった嬉しい言葉や出来事をメモをして、 つらいときはそれを見てた。

「退院して、庭の花の種ができたら持ってきますね」
些細な世間話だったのに、退院してしばらくしてから、 足利銀行の封筒に花の種と手紙を持ってきてくれた。

全盲の人が、退院してからハンカチと手紙を持ってきてくれたこともある。
読みにくい乱列されたひらがなを解読。
「せんぱいの  こんじょうには  まけるなよ」

まけるなよ、が、解読できたとき、わんわん泣いた。

ベッドサイドで、何度も怒鳴られてた私は、 光のない世界の人に、どううつってたんだろう。

甘えてる。強くなろう。

患者さんに励まされるたび思った。

今月で、今の病院を退職する。
勤務は、あと2回。 理由はさまざまだけど、大きな意味ではチャレンジしたかった。 仕事が嫌で辞めるわけじゃない。

自分にできるか不安だった看護師も9年目。 私の退職は病院にとっても痛手だと、スタッフみんなに引き止められた。 ありがたい限り。

人生の師にあたる患者さんに、いろんなことを教えてもらった。
辞めると決めてから、私はこの仕事が好きなんだと心底思った。

幸せは、いつも自分のなかにあるんだろうな。
感謝の気持ちが足りないと、気づけないだけで。


とりあえず、 好きな看護師をせっかく辞めるんだから、 後悔しないようなチャレンジをしたいと思った。

まずはワイヤーアート。

日常に流されて無理だと思ってたチャレンジ。
アクセサリー販売を始めました。 今月末から、吉祥寺のお店にも委託販売していただけることになりました。
委託販売店、募集中。

今のところ、人気はセミオーダー制。
必要ならその人の雰囲気、髪型、顔の形や首の長さに合わせて微調整します。

女の子なら、自分のための一品は特別なもの。
ピアスの穴が開いてないから、と、あきらめる必要はない☆

看護師の知識を生かしてインナービューティーを伝授しつつ、

自分に自信を持って輝ける人を増やして生きたいと思う。


Ayako Yoshii.


‥‥看護師の仕事。職業柄、すぐ近くで見ているわけですが、看護師1年目の1年生。彼女達の涙を何回見てきたか分かりません。それだけイノチの現場は重く、深く、激しく、厳しい場。
でも日に日に強く逞しくなっていく姿に、自分自身も負けてはいられない、といつも力をもらっています。

出来上がった一つのモノ。そこにはその人の「想い」が詰まっている。

そのモノの「輝き」はその人の「輝き」。

だからきっとこれからもたくさんのキラキラ「輝く」モノが生まれることと思います。

こんなにも今輝いているのだから。

2011年6月27日月曜日

やらなかった後悔よりも、やった後悔。

遠藤哲郎。

踊るSE。

小学生中学生のときは地味。
高校も地味。入学直後の実力テストで学年ブービー。

卒業後2年間浪人名義で寝て過ごす。東京のコンピュータ専門学校でプログラミングを学ぶ。地味な小企業入社。愉快な先輩達と意外とマジメに働くがプロジェクトの頓挫で嫌気がさし3年で退社。

ワーホリでカナダはトロントに行く予定をたてたがSARSのせいでオタワに行く。
運良くいい人達と出会ったおかげでそれなり楽しく過ごす。
ガイドやったり真冬(-10度以下)に外でメイプルシロップを売る。だから寒さガマン自慢はウザイくらいする。

帰ってきて1年半ほどニートをしたあと上京しまたエンジニアとして働く。
カナダ時代のBBQが恋しくなり友達を集めてBBQだのカレー会などを始める。今でも定期的にやる。
会社が傾いたのでまた辞める。

2ヶ月ヨーロッパに旅行に行きヴィーゲラン公園とスウェーデンのコンビニの店員の愛の深さに感動する。
帰ってきてから仕事もせずにペアダンスに明け暮れる。懲りずにエンジニアに再就職。英会話学校では宴会屋扱いを受ける。今に至る。


‥‥外国へ旅に出始めたきっかけ、とは。

「外国に行ったのは高校時代にロックに出会い、
Metallicaの『Master of Puppets』を聞き世界の広さを知る。
日本クソとか言う、中二病を乗り越えたことでいろいろな価値観を受け入れ、いろんな価値観をもった人に会いたくなった。
とにかく狭くて馴れ合わなきゃいけないところが苦手なのですぐにどこかに行きたくなるから。」


‥‥そんな彼の、これから目指すもの、夢、そして伝えたいこと、とは。

「難しく考えずに、楽しくしゃべって歌って踊って生きる、こと。

やらなかった後悔よりも、やった後悔。

適当に生きようがマジメに生きようが結局価値観次第。
インモラリーの魅力を知らない正義は説得力がないのと同じで、自由を知らない協調も説得力がない。
自分の表現したいことをもっとプリミティブになって感じよう。」


‥‥彼との出会いは約1年前の夏。本人も述べているように彼主催のBBQで出会いました。
独特な雰囲気と存在感がとても印象的で。
その年の彼主催の忘年会のカレーパーティーでは、これもまた本人も述べているように踊り狂っていたのがとても印象的でした。
とにかく本当に楽しそう、それがとても伝わってくる「人」でした。
そしてBBQをすれば何十人も集まってくる、それも彼の人柄の良さならでは、なのだと。

年を重ねるごとに色々なことを難しく考えてしまったり、理屈で考えようとしてしまったり、かしこく生きよう、
と思う「自分」が、意識せずとも少しずつ大きくなっている「自分」を感じる中で、

楽しく生きるという根本的な大切さ、

シンプルであること、「感じる」ことの大切さ、

彼自身の持つ「雰囲気」から一つ伝えてもらえた気がします。



そして自分自身もまた「楽しむ」ことや「感じる」ことを大切にできる、



そんな日々を送っていけるように。





‥‥そんな彼から、最後に。好きな言葉たち。

「踊るうえで最大のミステイクは考えること、考えるんじゃない感じるんだ。」 マイケル・ジャクソン


「プロとアマの最大の違いは、アマは考えるし、プロは感じる。考えるのは音速、感じるのは光速。音速じゃあ光速には勝てない。」 プロ囲碁棋士 武宮正樹


「虚栄心を傷つけることは悲劇の父であるが、自尊心は傷つくほどさらに良きものを生み出す。」 ニーチェ


Tetsuro Endo.

2011年6月12日日曜日

本気で決意すれば力が出る!

新井 博暁。

路上ミュージシャン。
アルバイトをしながら、音楽でのデビュー・成功を目指し都内でバンドでライブをしたり、高円寺で一人で路上ライブをしたり、バーで歌ったりと活動中。

中学3年生の頃に初めてエレキギターを手に取ったことが本当に衝撃的であり、また幼い頃から親の影響でヤマハ音楽学校に習い事として通い、歌う事が本当に好きであった。

帝京中学入学し、そのまま帝京高校へ。
音楽をやりたいとの思いはあるも、両親の大学進学への希望と、自身のもつ世間体な部分も引っかかり帝京高校卒業後、法政大学へ入学。


大学時代。軽音サークルに入り、毎日好き放題過ごす。
就職活動の時期になるが自分はやはりこの就職活動に思い切り打ち込むことができず、いよいよ真剣に音楽活動に打ち込もうと就職はせず。

しかし卒業後は自分自身を自分で管理するということや、先に描くヴィジョンを明確に打ち出せず、甘えや、惰性、就職した友人と自分との劣等感、等に押しつぶされてそれとない日々を何年も過ごす。他と比べてばかり、日々の自分自身と見つめ合うことが本当に少なかった、というより見ないようにしていたように感じる。

そんな中、約二年前に埼玉スーパーアリーナで合唱することになり、そのグループに参加させて頂く機会があり、そこで歌った時の大歓声を浴びた時に、やっぱり歌いたいと、心から思う。

今まで本当に自分の我見とか惰性とかで真剣に音楽活動を出来ていなかった。
だけれど現在。この数年でそんな自分、内面的な部分を本当に少しずつだけれど見直していくなかで、本当に人との繋がり、触れ合い、が大切なんだと思える様になったこと、また本当にラストの勝負なんだという気持ちで思いっきりやる!という決意をもっている。
また相手が見ていなくても『目の前の人に喜んでもらう』という心をいつも思い歌っている。




‥‥つい先日。たまたま高円寺を歩いていると、路上で歌っている彼と出会いました。

特に人だかりがあるわけでもなく駅の南口の広場で一人、歌っていました。

なんとなく雰囲気が良かったので、少し離れたベンチに腰かけ彼の歌を聞いていました。

外は梅雨空の曇り空だったけれど、彼の歌はとても聞きやすく、とても爽やかな気持ちにさせてもらいました。



この「街」には溢れんばかりの人がいて、路上にも多くの人たちが溢れ、先を急ぎ足早に行き交っている。

そんな動きとは対照的に、その場所に立ち、ただそこに在り、何かの「想い」を伝えている、路上の「人」たち。

彼もまたそんな路上の「人」たちの中の一人。


あのとき自分が先を急ぎ足早に通り過ぎていれば、声をかけていなければ、今こういった形で繋がることなんてなかった。

ただそんな路上の「人」が、何を想ってそこに立っているんだろう、何を伝えたいんだろう、って、
気付けば心の中がそんな気持ちで溢れていて、体が勝手に動いていた。

その「人」それぞれの何十年の背景があり、何かの「想い」をもち、そして伝えたいことがある。

それを必死で伝えようとしている彼らが立つ、路上のその「場」は、

慌しい「街」とは対照的に、キラキラと光り輝いている。


繋がりがないところからは何も生まれない。

でも何か一つでも、こういった形でも繋がれば、そこから先には無限の可能性があるような気がするんです。

ここからまた、繋がっていくことができるよう、「願い」と「想い」を込めて。






そして、そんな彼の「夢」とは。

「本当に漠然としていて、まだ抽象的ではありますが、多くの人に関わり、また自分という人間を通し多くの人を救える人になりたい。

今は「音」、自分の歌、声を通して多くの人を励ませれる自分になりたい。」


活動状況。
Serendip Chord。
結成2008年。ジャンルにとらわれずFunk,R&B,Boosa,Rock‥‥様々なテイストを取り入れたPOPSバンド。日々日常にあるありのままの姿を甘いトーンのvocalで聴かせる曲からGroovyなFunky Songまで多様に歌う。都内近郊中心に活動中。
Serendip Chord official web site → http://serendipchord.jpn.org/

毎週金曜日 約17:00〜 高円寺南口広場で路上ライブ(雨天中止)。

バンドSerendip Chordで、都内ライブハウスにてだいたい月1本ペースでライブ、詳しくはwebで。


‥最後に、「西日が差す頃に」という曲の歌詞の一部分を抜粋させて頂きます。

「夢見た場所はあとどれくらい?行き先すら見えないで腐ってさ。

今日という一日を価値的にって、どれだけの人がそう言えるのだろうか。

思い通りに出来ないから駄目なのかな?って、無駄なんだって感じちゃって。

うまくいかない今日、明日をやり切る事が価値的と思うんだ。」

Hiroaki Arai.

2011年6月6日月曜日

ドブネズミみたいに美しくなりたい。

池ヶ谷正宏。

イベンター。
EOS(イオス)~TOHOKU FUKKO支援活動~代表。
SNSサイトmixi→http://mixi.jp/show_profile.pl?id=13224627&from=navi

個人ブログ→http://ameblo.jp/eventermasahiro/


中学生まで友達を遊びに誘うという行為が嫌いで、友達を一人も作らない。

高校時代、あみだくじの運の無さにより、応援委員に入る。後に応援団に入り、3年間正式に所属。

社会人になり、遊ぶ。モヤモヤする。遊ぶ、モヤモヤするをとことん繰り返す。

24歳の時にある人との出会いでイベンターの道を志す。大人が本当に子供のように笑い、遊ぶ姿にこの上ない幸せを感じる。

25歳の秋、野外イベントを行い、決意を固める。



‥その彼自身の中で一つの決意を固めた頃の、彼の想いを綴った文章を抜粋します。これには彼の今の「想い」がここに全て詰まっているような気がしたから。



「今はそんな生き方でいいんだ。

泥くさい人間が好きだ。一生懸命さが伝わる漢が好きだ。

甲本ヒロト、中山雅史、山田玲司・・・・

共通しているのは人間らしい。泥くさい「人」。

良くも悪くも、うまくはない気がする。

ただ、味がある。人々を寄せ付ける何かがある。

中身が熱さだけじゃない、繊細さを持ち備えている人間に思える。

学生時代、熱を怖がっていた自分がいた。

燃えていたい自分と燃えて、総スカンをくらったらどうしようという自分。

結局、同調性や周りの空気に合わせる自分がいた。

それだから一人でいることを望んでいた。

流されたくもないし、流されないように見せる技術もなかった。

それはきつい経験だったけど、あの時代があったから今の自分がいる。

その時代も含めて、本当の意味で今の自分が好きだ。

多分、根っこは泥臭くて、人情くさくて、涙もろかったり、熱すぎるくらいに熱い人間なのかもしれない。

20代ってきっとまだ熱くて良い歳。多分、自分が40や50になった時に20代に何を求めるかって想像したら、20代には「活気」や「熱さ」を求めると思う。

それが30代、40代を迎えていき、少しづつ変化をきっと起こしていくイメージが頭の中にハッキリと想像できている。

だから今は泥臭くて、いいじゃないか。

熱く生きる人間が一億人の中に何人か生きていてもいいじゃないか。」


‥そして26歳の彼の誕生日。3月11日。

東北地方大震災のあの日。

その日から2日後の3月13日。彼はこう文章に綴っていました。


「俺、ここ何日か凄い迷ってる。

何が自分にできる支援なのか。


俺がしてきたことで一番人を元気づけられること、何なのかなって。

正直わかんないんだ。どれが絶対的に正しいなんて。

だったら俺、一番自分が励まされてきた形で表現してみたい。

俺が励まされてきたこと。

それって、やっぱ「歌」。

キツイ時あったときにあんな「歌」を聞いて、励まされてきた。

泣きたい夜にあの「歌詞」を思い出して、頑張ろうって行動してきた。

俺はライブを仕切らせていただいているイベンターだけど、ぶっちゃけ

音符がよめるわけでもないし、楽器もロクにできない。

小学校から高校まで音楽の成績なんて5段階で2だった。

ただ、やっぱ好きだった。

スゲー、好きだった。

皆がダサいと思っていた合唱も一生懸命やってた思い出がある。

応援団の応援歌も好きだった。振り付けダサくても好きだった。

歌が国境を越える瞬間を友達でしてきた奴がいる。

路上アーティーストで皆を励ます奴もいる。

そんな奴らとはOKサインを貰って、動く体制にしている。

俺、被災地への募金支援はもちろんのことなんだけど、 周りの不安を少しでもいいから解消していきたんだ。

アコースティックギターならば、ほとんど電気も使わないだろうし。

歌って今まで人を励ましてきた大事なツール。

下記のように

We are the World 25 for haiti アーティスト名&歌詞付 日本語訳付。
http://www.youtube.com/watch?v=VhD6tuz_9uY

だから渋谷の路上に出て、一緒に歌おうよ。

一緒に募金活動しよう。

金額の支援だけでなく、人々を少しでも元気づけてあげよう。

歌唄うの下手だったら、歌わなくてもいいよ。 多分俺の方が音痴だけどさ。

一緒に盛り上がるだけでいい。

一緒に行動してくれる姿が皆を励ましてくれる。

皆を安心させてくれる。だから動こう。

俺は皆と一緒に動きたい。 」

‥それから数ヶ月経った現在、募金活動の形も「歌」から「呼びかけ、声だし、お辞儀」へと、場所も「渋谷」から「新宿」へと少し変わり、路上募金活動を土日行い、イベント活動も徐々に行う形になってます。
そんな募金活動を続ける中の心の葛藤や辛さ、喜びの「想い」も彼はこう文章に綴っていました。


「本当の意味で世間にほうりなげされたとき、

周りに味方がいないとき、

俺はとんでもなく無力なんだなと今日、思い知った。

まちゆく人々は関心をしめさない。

彩りされたモノであっても、声を少し大きめにしても俺の存在はないんだろうな。

悔しいな。

ホント久しぶりに心が折れそうだった。

募金箱は一人だからなのか、たまに人に当たりそうになるし、隣のあんちゃん達はチラチラとずっと見てくる。

スゲー嫌な気分なんだ。ぶっちゃけ。

「堂々と、いちゃもんとかつけてこいや!そのほうが楽なんだよ」って心の中で思うぐらいに。

ホントに無力で、人々を魅了できるような圧倒的な力が欲しいと思って、

涙が目にたまりそうになって、被災地の情報は知ってるから余計に悔しい。

2~3人いるときは人は聞いてくれる。関心を示してくれる。

やってることは同じだし、意味も同じだし。

他の募金団体もいなくなり、(隣でさせてもらっていた)本当にひとりぼっちになった瞬間がある。

ただ、ぼっーと突っ立っているなら楽だし、何も感じなくてもいいし。

ただ、俺がそこにいる意味は?

バイトして、お金をそのまんま送ればいいじゃんっていう話はよく聞く。

ただ、そんな中でも5月末までは最低限、休日はこれに費やすと決めたんだ。

俺がしているのは「金額」だけではないから。

「関心の薄いところに対しての自然的な投げかけ」も含んでいるから。

それを悲痛的な叫びではなくて、復興を力をかけている人々の支えとして存在していたい。

ボソボソと言うのではなく「わかりやすく、ハッキリ、活気よく」伝えていきたい。

それがひとりぼっちのときにはこんなに伝える「力」が減ってしまうとは。

マジで自分の価値が情けなかった。

ただ、腐らずにいたかった。

被災地の人のためとかもあるけど、もう本能的に近いレベル。自分がこういう性質でいたいというレベルのために頑張ってみた。

悔しくてわけわかんないから、微妙に涙目になりながら叫んでみた。

それでも人は見ない。

これが今のまちゆく世間の反応なのか。

俺の活動には魅了がないのか。

諦めモードが心に突き刺さってくる。

いらねえよ! そんな感情にまだまだ支配されとる俺はアホだ! そんな男でいたくねえんだよ!


そして、

今まで俺は、人にどれだけ頼っていたか、

どんだけ大切なのか、

人と一緒に動けることがどれだけ幸せだったのか、

頭の中でぐるぐるリバースしながら活動を続けていた。


そんな中、今日最大限に泣きそうになった場面は、

「仕事と仕事の合間の20分に参加してくれた女の子。」

「一人ぼっちで叫んでいたときに目を見て、頑張って下さいといってくれた兄ちゃん。」

最近、泣く機会ってなかなかなかったし、強く生きたいと思っていた今は「泣く」っていう行動自体を抑えるようにしていた。

強がるとか、無理をするとかじゃないんだ。

ただ、感情が一気に揺さぶられると一気に疲れのようなものも出るし、他の作業も出来なくなっちゃうのかなーと無意識的に考えてた。

今日の涙が悔しさなのか、喜びなのか俺には何かよくわからんが、何か大事な涙な気がした。

本当に隣にいるだけで十二分に力になります。

年齢も性別も技術も時間も本当に本当に本当に関係ないです。

隣にいることが力をくれる。

それを身体で味わってきました。

何分でも、買い物帰りでも、遊びのついででも構わないです。

ほんの少しでも構わないです。

俺は一緒に活動したいです。

皆さん、本当に本当によろしくお願いします。」





‥‥一度、僕が都内を慌しく動き回っていたとき、夜の7時を回り新宿駅西口にて彼と遭遇しました。そのとき彼は一人で街頭に向かって声を上げ募金活動をしていました。
それ以前から面識もあり繋がりもあったのですが、先を急いでいたので気付かないふりをして通り過ぎようとしました。でもどうしても頭から離れなくて急ぐ足を止め隣に立ってみました。
そのときにこちらを向いた彼の表情はなんだか忘れることができません。
そして真横から伝わってきた彼の「想い」もまた同様に。
電話に呼ばれ、自分が共にいれたのはほんの少しの間だけ。

募金活動。僕自身も否定的には思っていないですが、肯定的にも思っていませんでした。
「理論」や「理屈」、「効率」で考えれば、募金活動は「否定的」に捉えられる要素を幾つも並べることができるから。
街行く人も似たような捉え方、もしくは無関心か中には否定的な人も多かったりするのかもしれない。

でも彼のこのまっすぐな気持ちを感じ、その姿をこの目で見たなら、そんな気持ちなんて僕は吹っ飛んでしまいました。

本当に大切なのは、「理論」や「理屈」じゃない、「感覚」や「感情」なんだって、ただただそんな気がするんです。

募金活動をいつまで続けていくのか、あるいは次の支援活動へ移行していくのか、それは僕には分からないけれど、

「震災」とまっすぐ向き合い、活動を続け、

そして「今」と一生懸命向き合い、活動している彼に贈るべき「言葉」や「行動」は、

温かさや思いやりのある「言葉」であり「行動」。

のはずだから、新宿駅の近くで彼の活動と出会うときがあったなら、どうか「温かさ」をよろしくお願いします。


募金活動。一度だけでも良い、

最後の日があるのなら最後の日でも良い、素敵な人たちを集めて、始まりのきっかけだった、大好きな「歌」で、もう一度、募金活動を。

それで俺は彼のとびっきりの最高の笑顔を近くで見たいんだ。


素敵な「歌」と「人」と「笑顔」に包まれて。







‥最後に、彼の「夢」とは。

「夢はありすぎ!

常識を変えるイベンター。

最終的には現場で遊びに来てくれた人々と同じ目線で、一緒に遊べれるようなイベンターになっていたい!

「屋上でギター鳴らすぜ!廃校LIVE」

「無人島自体を貸し切って、野外フェス会場にまるごとする」こと。

そして「人類初の宇宙空間LIVE」

Masahiro Ikegaya.

2011年6月1日水曜日

大丈夫、頑張ればなんでもできる。願いはきっと叶うから。

優。

看護師。

東京都中野区出身。
二人姉妹の長女。
両親、祖父母、曽祖父母、叔父、叔母の大家族の中で育つ。

女の子なんだから‥と、自転車すら禁止され、将来かわいいお嫁さんになるためにと大事に、ある意味過保護に育てられた。何の不自由もなく幸せであったが、幼少期から好奇心は旺盛。女の子だからダメなんて理解不能であった。

中学校時代。
吹奏楽部でフルートを吹く。
受験勉強を優先するよう言われながらも最後まで没頭する。

高校時代。
海外生活に憧れる。
ハワイマウイ島での短期留学にてさらに熱は高まる。

短大時代。
保育の勉強、実習を通して、子どもと関わることの楽しさを知る。
幼稚園の頃からの夢、幼稚園の先生をめざす。
そして幼稚園の先生になり、その後、寿退職。


ここからが波乱万丈人生の始まりとなる。

若くして結婚。

幸せは長くは続かなかった。

親にも言えず、友達にも相談できず、誰にも言えずに離婚。まさかこんな事になるなんて想像もしていなかった。

いつまでも泣いてばかりいるわけにはいかない。

東京から出たことのない私は、この際どこか地方へ行こうと考える。なぜか四国と鎌倉の幼稚園に問い合わせる。が募集なし。幼稚園教諭人材バンクへも登録。

そんなことをしている時に、看護学生募集のポスターを見る。
なぜか心が惹かれた。小児科だったら自分の経験が生かせるかも。そして、受験勉強が始まる。ちょっと遅いが、自立への第一歩。何も知らない親からは、今更何をしているのかと咎められるが、もう必死だった。お金がなかったので、選択できる学校は二つしかなかった。面接でいじわるな質問をされるが、何とか合格。と同時に北京の日本人幼稚園と目黒の幼稚園から採用の連絡がくる。ちょっと迷ったがスキルアップを選択した。

看護学校に入学してくるのは、全国の高校を卒業したばかりの人9割。心強いことに社会人経験者や主婦も約1割いてホットする。でも、なぜか年齢の近い人たちより若い人たちと仲良くなり、3年間支え合い、今でも付き合いは続いている。人の命にかかわる仕事をするのだから当然なのかもしれないが本当に厳しい3年間だった。朝になってしまう!時間がない!と泣きながら勉強するなんて今までなかった。

悲しい涙ではなく、必死の涙をよく流した3年間だった。

実習は辛かったが、患者さんに会うのは楽しみだった。

お散歩とおしゃべりが大好きだった末期がんの患者さん。

乳がんのオペ後のリハビリを一緒にやらせて頂いた患者さん。

糖尿病の治療計画を一緒にたてて、協力してくれた患者さん。

点滴を何度も抜いて困らせてくれたかわいい小児科の患者さん。

自分が支える側なのに、いつも支えられていた。

命というものを考え、どう生きたいか、死にたいかと死生観を考えた看護学校時代だった。


そして現在。
児童思春期精神科ナースとして働いている。

ふと思い出す1人の男の子がいます。

主訴。ネグレクト。

親なんて信用できない。

幸いにも少しづつ心をひらいてくれて信頼関係ができてきた頃、家には帰れないので、施設に入所ということになったが、私は、無理やりではなく、自分の意思で決めてほしいと願った。
子どもは大人に守られて、勉強したり運動したり遊んだりして心も体も健康に育たなくてはいけない。
そのためには、家で生活するよりも施設で生活することが望ましいと私達は考えている。でも無理やり大人の意見だけで決めたくはない、一緒に考えようと伝える。

それでも彼は、もちろん「帰りたい。」と言う。
説得するのではなく、彼の気持ちを聞いて、なるべく添える条件を施設に伝え環境調整に努め、彼との時間をたくさん作りいろんな話をした。彼は何度も泣いたけれど話すことを拒否しなかった。

そして、児童相談所との面接日。
彼の口から、
「僕、施設に行きます」と。

彼の心の葛藤や答えを出すまでの心の状態を考えると涙が出た。
彼が入所する施設へ申し入れた条件を再確認し絶対に裏切らないでほしいと伝えた。


彼が病院から施設に行く日。
私は勤務ではなかった。
勤務日以外は患者さんに関わらないように決まっているが、この日は看護長も何も言わず見送らせてくれた。

彼も私も言葉を交わせなかった。

ただ車の窓からじっと私を見ていた。

しっかりと上を向いて。

彼のあの表情を今も忘れる事ができない。


看護師が関われるのは、ほんの短い期間。自分に何ができるのか。毎日の課題。

楽しいことを知らない子どもたち。

希望をもてない子どもたち。

「大丈夫!頑張ればなんでもできる!願いは叶う!」

といつも子どもたちに言っている。
私だって普通に生きてたら経験できなかったことを経験できてる。

普通に生きてたら出会えなかった人たちと、出会い繋がっている。

だから普通じゃなくても、どんな事があっても大丈夫!

願いは叶うよ。


人生において偶然の出来事や出会いには、いつも意味があると感じる。振り返ってみると、よく分かる。

今幸せでいられるのは、過去の出来事や出会いのおかげなのだと思い感謝する。

そして、これからは出会えて良かったと言ってもらえる人になりたいと思う。


最近の大きな出会いは100旅。100旅に参加できたことで世界が広がった。
夢を現実にできる仲間たち。
本当に出会えてよかった。

その仲間たちと下北沢にて。メイン主催メンバーの一人として6月4,5日被災地支援チャリティーイベントを開催。
http://tabibana100.com/event.html
100旅でつながった人からさらに輪が広がる場となる事を願う。




最後に今の夢は、

世界中を旅しながら世界の海に潜りたい、かな。

you.


‥彼女もまた100旅本第4弾企画に参加し「地球に恋した旅人たち-大地編-」の37ページ、「I LOVE CEBU」にて執筆されています。
そして現在、この第4弾100旅本をもっと皆に知ってもらおうとプロモーション活動のリーダーもされています。
いつもいつも、いままでのイベントにも参加してくれて、僕自身何度も気持ちの部分で支えてもらえていました。

長い間ずっとよく分からなかったことがあります。どうしてこんなに活動に一生懸命なのだろう、と。
今、ほんの少しだけ分かったような気がします。


大丈夫。頑張ればなんでもできる。願いは叶う。


子どもたちに向けられた、この言葉。

それはきっと、彼女自身がこれからも一つ一つの願いを叶えていく「人」であれるよう、

そしてその「姿」を子ども達に見て感じてもらえるように、

そうやって子ども達に「人生」の「楽しさ」と、「みらい」への「希望」を感じ持ってもらい、

前へと一歩ずつ歩んでいってもらえるように、と。


なんだかそんな気がするんです。

子どもの「笑顔」と「力」は凄いんだから、無限の可能性があるんだから。

そして大きな大きな「力」をもらえるんだから、僕がそうであるように。


6月4,5日の下北沢の被災地支援チャリティーイベント。
http://tabibana100.com/event.html


この一つのコトでも、その背景にはきっと多くの「想い」が詰まっている。

そこには子ども達から繋がった「力」や「想い」が溢れているのかもしれない。

だから願わくば、これを読んでくださった方が一人でも多く足を運んで頂ければと感じています。


それがまた、「明日」の子ども達に繋がっていくかもしれないから。

2011年5月28日土曜日

一生青春 -「結縁」と「尊縁」と「随縁」に包まれながら-

明野裕一。

税理士補助。


『育ち』

1984年川崎市生まれ。

二人兄弟の長男。
小学校入学前に両親が離婚。父とともに父方の祖父母のもとで生活を始める。
祖父母ともに60を迎える頃だったと思う。祖母は親族のたくさんの子を育てた、というのがいつもの自慢だった。

僕もそのひとり。
父親は仕事で日中は不在。朝のおはよう と 夜のおやすみ、そして日曜日にしか一緒にいれなかった。それでも少しも不満はなかった。
祖父母がいつもそばにいてくれたからだ。

うちのばあちゃんは、、誰もが認める料理上手。お陰様でコロコロ太った。うまい!と言えば週に3日は同じ料理を立て続けに食べさせてくれた。なにしろうまかったんだ、ばあちゃんの料理は…
今でも、僕が作る料理の基礎となる味は、ばあちゃんのものだ。

じいちゃんは寡黙で、厳しい人だった。背の高かったじいちゃん。
「じいちゃんと一緒に寝ると背が大きくなるよ。」と、ばあちゃん。
それでもたまにしか一緒に寝なかったなぁ、やさしいばあちゃんの方が好きだったんだ。ごめんよ、じいちゃん。

でも、じいちゃんもやさしかったよね。あるとき急に、小さなウサギのぬいぐるみ買ってきたよね。男の子だもん、正直恥ずかしくて「いらないよー。」って言おうとしたけど、僕の反応をニコニコしながら待っているじいちゃんを見たら言い出せなかった。でもずーっと大事にしてたんだよ。

ありがとう。

そのぬいぐるみも僕が高校生になり引っ越しのドタバタの最中どこかへいってしまったみたい。僕もじいちゃんとばあちゃんとほんの少し離れた。
その頃からじいちゃんが痴呆症になり、見る見るうちに老いていった。介護が必要になり1日のほとんどを寝て過ごすようになる。同じく年老いたばあちゃんだけでは、介護は難しく、すぐ近くに居た僕が毎日のように呼び出された。ばあちゃんも疲れ切っていたね。

ある時、深夜にばあちゃんからの呼び出しがあった。すぐに駆けつけると、リビングの椅子に座ったままのじいちゃんに困り果てての事だった。何度呼び掛けても眠たいようで動かない。持ち上げようとしても嫌がる。
(あんまりばあちゃんを困らせないでくれよ…)イライラして思わず声をあげた。
「いい加減にしろよ!」…初めてじいちゃんに向かって大声あげてしまった。

ごめんよ、じいちゃん。

時は過ぎ、大学へ駒を進める。
大学一年生。ある日の大学からの帰りの電車内。携帯電話にじいちゃんの死を知らせる電話が入った。
一番身近な人の死に初めて向き合う。
眠るじいちゃんにあの時言えなかったごめんを言った。
葬儀が終わり、じいちゃんの遺品を整理していると棚の間から日記が見つかった。じいちゃん、いつも几帳面に何かを書いていたもんね。
ばあちゃんが見ていいよ、って言うからこっそり見ちゃったんだ。

僕の事たくさん書いてくれていた。ずーっと‥

日付をゆっくりのぼり僕が中学生くらいの時まで読み進めたとき、僕は涙が溢れてとまらなくなった。
「最近、反抗期だろうか。裕一が冷たくなった。」

じいちゃん、ごめん。
そんなつもりはなかったよ、ごめん。
じいちゃん、いつも見ててくれてたんだね。

じいちゃん。許してくれるかな、

ばあちゃんばっかりに懐いたこと。
プライドが高かったから、きっとイヤだったんじゃないのかな、ボケてはいてもオレなんかがオムツを換えたこと。
面倒を見てきた孫に大声をあげられたこと。

そして僕が言えなかった「ごめん」と「ありがとう」を聞けなかったことを。


『人』

こんな祖父母のもとで育った僕。
人に優しくなれたのもこの祖父母のお陰だったかもしれない。
たくさんの先輩方、尊敬する師。そして多くの友人。

高校の親友。
よくケンカした、泣いたり笑ったり。みんなで夜に集まり、ドンチャン騒ぎ。オレはフラフラして河川敷で迷子になった。川に浮かぶ木片を見て「ハッ」とした友人たち。朝方まで捜してくれた。みんなが諦めた。それでも最後の最後で見つけてくれた親友。オレのために泣いてくれた。
そんな親友。高校を卒業すると「夢のため勉強に専念する。」と友人関係を絶った。
それでもオレはこいつだけは離すまいと、オレだけはいつまでも一緒にいるからなと誓った。

なぁ、想像出来るだろ。おっさんになっても、子供が出来たときも、じいちゃんになっても、
飲んで、笑ったり、泣いたり、お前とは一生そばにいる気がするんだ。
お互い目指すモノのため、もし、互いに道を逸れるようなことがあったら、お前がオレを正してくれよな。
なんて語り合ったりもした。

そして親友は、夢だった消防士になり今も輝いている。

大学では大人の付き合いを、義務と権利、自由を手に入れた。
大学生の頃アルバイトで入った小さな居酒屋。
人生の先輩方、カウンターを挟んでたくさん話を聞かせてもらった。

いつも陽気な店長。酒も煙も大量摂取。バイト終わりにいつも朝まで付き合わされた酒。楽しかったよ。まるで父親のように叱ってくれ話を聞いてくれた。

酒を飲み、
お互いの夢や希望を語り、
熱くなり、
お互いの境遇や悩みを語り、
涙した。

大学4年の夏休み。沖縄へ行こうと決めた。じいちゃんが亡くなってから沖縄に住む息子のもとへ行っていた、ばあちゃんに会いに行くために。
社会へ出る前の最後の自由な時間もある。「行くぞ。」友人たちに話すと2人が一緒に行くと言ってくれた。バイトも長期休暇、就活もしないまま学生最後のバカ旅。
浪漫。やるならトコトン。バイクで行くぞ。
出発も目前の7月。不覚にも道路交通法違反で捕まった。免許取り消しのための出頭命令。

…行こうぜ!

父さんに頼みがあるんだ。警察から連絡が来たら息子は家出しましたって言っておいて。
大事なものがないままバイクで旅立つ。
一般道でのんびり自由に、各所を巡り、道の駅で毎日野宿。
今まで観たこともない景色を観、人の温かみに感謝をしつつ、14日間を費やし沖縄に到着。

ばあちゃん。会いに来たよ。


『夢』

そういえば、じいちゃんもばあちゃんも「お前は立派な人になるよ。」って、いつも言ってくれてたね。
でも僕は勉強はてんでダメ。ただただ、普通教科の勉強がしたくなかったのと、算数と数学が好きだったため、高校は市内にある川崎商業高校へ。
そこで今の仕事へと繋がる。
「簿記」に出会う。面白くて夢中になった。簿記の勉強では誰にも負ける気はしなかった。
自惚れ屋さん。
授業を無視し、独学で勉強を進める。担任に咎められ暴言を吐く。「先生に教えてもらうことなんてありませんよ!」
卒業後担任に再会。その事を忘れてはいなかった。「お前に言われて今資格の勉強をしてる」と。

オレも負けませんから。それと先生。今なら言えます。先生に向かって偉そうな事を言ってごめんなさい。

会計学を学ぶため、はるばる大東文化大学へ進学。素晴らしい師と出逢った。
学問はもとより、社会人としてのマナーや人生を豊かにするための心構えを多く教わった。

その中でも「好きな言葉は?」と訊かれれば答えるほど心に残ったものがある。

[サミュエル・ウルマン]作詩の
“YOUTH”『青春』だ。
邦訳で[岡田義夫]さんのものがあるので少し紹介する。

“青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ”
“年を重ねただけで人は老いない”
“理想を失うときに始めて老いが来る”
“人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる”
“人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる”
“希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる”

いつまでも『青春』で在りたい。

もう一つ好きな言葉を。

元総理大臣、中曽根康弘 氏が大切にされてた言葉。

“「結縁」、「尊縁」、「随縁」”

「結縁」とは。
「縁」を結ぶこと。
数多くある出逢いの中で、人生をともに歩む仲間と縁を結ぶことは大切な事だと。

「尊縁」とは。
「縁」を尊ぶこと。
出逢い結ばれた仲間との縁を大切にし、これを尊ぶこと。

「随縁」とは。
「縁」に随うこと。
縁を結んだ仲間によって人生は如何様にも変わる。
この結んだ縁によって出来た人生の流れに逆らわず随っていこうというもの。


今、この場でこんなことを話しているのも「縁」だと感謝している。

それも昨年出逢った友人『アキ』と「縁」を結んだことによる。今では親友と呼べる兄弟のような仲だ。『アキ』を見ているとたまに眩しく感じる事がある。
オレも負けてはいられない。

現在は実学へと駒を進め、赤坂の会計事務所で働く。
多くの友人たちの期待と圧力もあり、資格取得に向け日々勉強中。

いつまでも「輝いている!」と誇っていられるように。

みんなと笑っていられるように。

これからも日々勉強。


いつまでも『青春!!!!!!!』

Yuichi Akeno.



‥今確かに結んでいる「縁」があります。その「縁」を大切にして尊び、
これから思い悩むこともあるだろうけど、自分自身、この結んだ縁によって出来た人生の流れに逆らわず随っていきたいと思います。
きっとこの「縁」が自分にとって一番の、そして結ぶべきであり結ばれる「縁」だと信じているから。

そうやっていつまでも笑っていたい。

そして近くで「笑顔」を、いつまでも見ていたいから。

2011年5月25日水曜日

After all,tomorrow is another day-明日はまた明日の陽が昇る-

二瓶大輔。

薬剤師。糖尿病療養指導士。

神奈川県横浜市に二瓶家の長男として誕生。
母親はピアノの先生。逃げるために小学3年から水泳を習い始める。

中学時代。東京まで1時間半の通学。
それでも水泳の朝練をこなす。
ホームステイ先との文通から海外からの絵葉書に興味を持つ。

高校時代。
水泳+ライフセーバーの部活漬け。

大学時代。
1年間の寮生活に憧れ、富士急ハイランドの麓へ。

過ごす毎日は、朝まで喋って飲んでで、ほとんど修学旅行。1学年が400人ちょい。なので、みんな友達。

大学院時代。
研究と病院漬け。
ドラッグストアでバイトをしながら、でもなんとか修了。

そして社会へ。

ふつーじゃないのが好き。

新しいことをしてみるのが好き。

もちろん人と話すのも好き。

社会にでて旅に出る楽しみを見つけた。

仕事は同僚が行きたがらない病棟の担当。

血液の病気って怖いイメージ。
治らないそんなイメージ。

抗癌剤治療をしながら入退院を繰り返す、そんな病気。

白血病と戦う祖父を見て育った。

だから大学病院で働く道を断り、最後まで祖父を治療してくれた病院を選んだ。

働くのが生きがい。

そんな仕事漬けの毎日。



ちなみに写真のペンギンは自分。

TVにも紹介されたクリスマス回診で、退院できない入院患者のためにDr達と着ぐるみを着て変装し、クリスマスカードを渡す。
泣くほど喜んでくれるのを見るとやって良かったと感じるひととき。


‥100旅本第4弾「地球に恋した旅人たち-大地編-」の35ページ「Love Beer??」で著者としても執筆されている彼。
連休があれば海外へ弾丸トラベルへ向かう彼。
国内も飛行機で飛び回る彼。
ブログ→http://blog.livedoor.jp/phardaisuke/

そして‥社会に出てから旅に出る楽しみを見つけた彼。
そのきっかけとは。彼はこう語ってくれました。


「旅に出る機会を与えてくれた、ある一人の患者さんがいました。

癌。

治らない血液がんで 、緩和的な抗がん剤治療をしてた方。

1カ月ごとの繰り返す入院の中、副作用チェックとともに 少しだけ話す「旅」の話。

「昔、ここに行ったの。」

「また行けるかしら?」

「行ったとこの写真が見たい。」 と話す、その人。


お土産はあげられないけど、お土産話はしてあげられる。

撮った写真をアルバムにして、無菌室の孤独な時間に眺めてもらうことはできる。


当時、日本しか行ってなかったのもあって、

「海外は行かないの?行けるわ。私でも行けたもの。」 と話す、その人。


今思うと、それが始まりだったように思う。

100旅に出会えたのもその方と会えたから。

今は亡き、その方のおかげ。


旅をしていても感じるけど、『一期一会』ってこういうこと。


自分にとっては、毎日会う沢山のうちの1人。

でも患者さんにとっては「Only One」

そう思いながら、日々仕事してます。

これからも感動できる経験をして、その話で人を感動させたり、幸せにすることができたら良いな、と思っています。

そんな自分の夢。

「新婚旅行で世界一周」

Daisuke Nihei


‥彼との出会いは100旅。前回お話させて頂いた「Mirai」で昨年の10月末に100旅のイベントを開催したときのこと。
その前に一度だけ会ったことのあった彼に、お誘いメールをしたところ、おそらく元々参加する予定ではなかったはずが、遠征先の大阪の学会から予定をうまく調整し、駆けつけてくれました。
そんな優しい彼。

そしてあの誘いがなければ、そして駆けつけなければ、出会った人達と旅に行ったり、あの場の人と出会うこともなかったのかもしれない、だからありがとう、と言ってくれる温かい彼。

ありがとうと言いたいのは本当はこっちの方なのに。

今思えば、あの一通のメールがこれもまた何かの始まりだったのかもしれません。

あれから今までの間だけでも、共に過ごした楽しい思い出が色々とあります。

きっとそしてこれからも。


どこでそんな「始まり」や「きっかけ」があるか分からない。だから人生って面白いのだな、と。

繰り返される毎日でも、明日はまた別の日。


明日はまた明日の陽が昇る。

そう思い、僕もまた明日を迎えようと思います。


「曇り空」じゃなく、明日もまたきれいな「陽」を昇らすことができるように。

2011年5月15日日曜日

夢ちゃん、父ちゃん頑張るけんね。後ろ姿、よう見とけよ!


下園卓 26歳。

老健の介護士。

現在、妻と子の三人家族。

高校の時に、着ぐるみのバイトで、食パンマンになる。そこで当時のドキンちゃんと、恋におちる。ちなみに、それが現在の嫁。

大学4年になっても就職活動もせず、毎日を過ごす。発達障害児を相手に、ボランティア活動を行い、そこで知り合ったおっさんに紹介されて、現在の職場である、老人保健施設で働き始める。

2007年12月に「結婚しよーやドキンちゃん」ゆーて、翌年12月に結婚。次の年には、子供、「夢」ちゃん誕生。


現在、平々凡々な毎日を過ごしています。給料そんなにもらってるわけではないので、決して楽な生活ができてるわけではないんですが、それでも、家族3人寄り添って、笑いあいながら生きています。

子供の成長は早くて、見てて楽しいです。
昨日までできなかったことができるようになったり、歌を歌ったりしてるの見てて、こいつ一生懸命生きとるなぁと感じます。こっちが元気もらってますって感じですね。



‥介護士として働き、家庭を持ち、日々過ごしているそんな彼の、「伝えたいこと」そして「夢」とは。
彼はこう語ってくれました。



「普通の生活」と「家族」の大切さですね。

人より苦労してるわけでもないし、酒飲みながらウンチク垂れる程度の事しかできない俺が言うのもアレなんですが、 毎日仕事から帰って家の灯りとかみると、落ち着くんですよ。そんで中に入ると子供とかが出迎えてくれて。外でどんだけ嫌なことがあって、落ち込んで帰ってきても、いつもと変わらず接してくれて。疲れとか、吹っ飛ぶんです。


世界を旅したこととかないんだけど、俺にとっては、ここがどこよりもすばらしい世界だと思っています。

「普通の日々」と、「家族」は、俺の宝ですね。


仕事の話でいうと、来年のケアマネ試験受かって、ケアマネさんになっちゃろうかと。給料安い、きついとかいう話は聞いてますが、あえてやっちゃろうかと思います。

そしてもうひとつの「夢」。
夢ちゃんの大人になった姿をみることでしょうか。どんな大人になるかわからんのんですが、せめて人の道を踏み外さなければ、何でもいいので。花嫁姿とかは、見たいですね。




‥彼との出会いは大学生の頃。何がきっかけかは覚えていませんが、大学の同級生。
彼も述べていた発達障害児へのボランティア活動。僕も2回だけ参加したことがあります。
1回目は大学入ってすぐの頃。だけど子どもとの接し方も分からず、当時子どもが好きでもなく苦手だったのでそれ以降参加することはなく。
2回目は大学生活後半の頃。彼に言われて参加。そのときもまだ子どもは苦手でどうして良いのか分からず。間違いなく2回目は彼に誘われることがなければ行かなかった、彼だから参加した覚えがあります。
そんな自分が今、小児科病棟で働いているなんて、人生とは本当に何が起こるのか分からないものだと感じつつ。

あの頃から、思いやりがあり、温かく誠実な「人」。
自分がオーストラリアで1年過ごしていた頃も、日本からメールを送ってくれたりした数少ない相手の中の一人。
色々あったあの頃の生活の中で、それがどんなに嬉しかったか、
きっと知るはずもなかったことと思います。


「世界を旅したことはないけれど、ここがどこより素晴らしい世界だと思う。」という彼の言葉。


世界を旅している人だけが、輝くのではない。

大きな夢がある人だけが、キラキラするのではない。

何かを成し遂げ、大きくなった人だけが、幸せなのではない。


「人」の数だけ、「幸せ」にも形がある。

「幸せ」もまた、自分の「心」次第。


それをまた、こうやって彼に教えてもらえた気がします。

間違いなくこの彼の言葉たちから伝わってくるのは「幸せ」と「笑顔」で溢れているから。

「幸せ」と「笑顔」に溢れた「世界」は、どこよりも、何よりも素敵な「世界」だから。


またその素敵な「世界」に遊びに行かせてもらいます。


「世界」にたった一つの「Home」に。

そしてそこには1日、1日と、大きく育っていく「夢」が在るから。


「こころよ
では いっておいで

しかし
また もどっておいでね

やっぱり
ここが いいのだに

こころよ
では 行っておいで」

八木重吉「心よ」

Masaru Shimozono.

2011年4月29日金曜日

「辛い」ということ。それはもう少しで「幸せ」になれそうってこと。


本谷京子。

助産師。

2011年3月。2年間の青年海外協力隊の任期を終え、中南米エルサルバドル共和国より帰国。

幼い頃に見たTVで映ってた発展途上国で活躍する看護師さんに憧れ、ただ正義感に燃えていた気持ちを大人になっても失わず、2年前青年海外協力隊員としてエルサルバドルへ。

活動は、辛いことが多くて、自分のプライドの高さを思い知り反省し、自分自身の弱い面に向き合う機会となった。日本という先進国で自分が幸せに生活し、どれだけ多くの人に支えられて仕事をしていたか、自分が助産師としてまだまだ未熟だということも改めて実感した。
また、日本では、医療者と共に安全に出産することが当たり前で、妊娠・出産の過程でトラブルが発生すれば大ニュースになる。しかし、あの国では妊娠・出産中に児が亡くなっても、母が亡くなっても、それは神が望んだことで、誰にも責任はない。病院は病気の人が行く所で、妊娠は病気ではない。日本では、考えられないようなことで妊産婦または乳幼児が亡くなる。教育の違い、男尊女卑が残る社会で、やはり女性は弱く、望まない妊娠、知識不足の結果、母子とも危機に陥る。そんな悲しい事実もあれば、保健所内や道端では所構わず、児に母乳をあげる母の自然な姿を見かけ、母の偉大さを感じ、日本人が忘れかけている自然な子育て、ほほえましい光景を見ることができた。
また、日常生活では、国籍が違えば言語が違い、文化が違う国で、沢山の人に出会い、冗談を言っては笑い、辛い時は一緒に悩み、一緒に涙する友人ができた。
この2年間の経験は、大変貴重であり、すべて私の人生の糧になると信じている。

これから助産師として、その中で何を目指すのかはまだ模索中。プライベートではそろそろ温かい家庭をもちたいかな。



‥4月29日今現在。24日より2週間、JICAの災害ボランティアとして宮城県岩沼市に看護師として現地で活動を行っています。

彼女との出会いは22のとき。ワーホリでオーストラリアで過ごしていた頃。
友人達とともにタスマニア島をレンタカーを借りて1周をしたりもしました。
レンタカーをぶつけて壊したのは‥僕でしたね。あのときは本当に申し訳なかったです。
今となってはそれもまた良い思い出。
テニスの全豪オープンもともに見に行きましたね。


あの頃から、とても強そうに見えないけれど、芯が強くてしっかりしていました。そして優しさや思いやりに溢れた「人」。

そしていろんなことで悩んだり、考えたりするとても人間らしい「人」。

オーストラリアでも、エルサルバドルでも、そして今宮城でも、きっと他の人には分からない葛藤や悩み、辛さを感じ、今もまたそれを抱えながら活動していることと思います。

イノチの現場というのはそれだけ深くて色々な想いが交じり合っているところ。

でも「辛い」の先には「幸せ」がある。

そうやって色々な出来事と正面から向き合い、そして「辛い」気持ちを「幸せ」な気持ちへと繋いでいる彼女の生き方。


僕もまた彼女のように「辛い」という気持ちを「幸せ」へと繋いでいけるように。

たくさんの「辛さ」があったとしても、それはきっとたくさんの「幸せ」に繋がっていくはずだから。







‥みんな夢を持っている。

でも、その一歩を踏み出す勇気を持っている人は少ないと思う。

だから、その一歩を踏み出せたとき、夢への道のりは半分は過ぎたようなもの。

そして、その先、道は長く続き、辛いこともあると思う。

でも、きっと辿り着けるって信じてる。

Kyoko Hontani.

2011年4月25日月曜日

ありがとう。ミラクルとそして最高の旅とともに-医食同源・身土不二・心身一如-


古屋雅子。

東洋医学好き薬剤師。
カイラスヨガ協会公認 チベット体操インストラクター
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=78084&userflg=0
外資系メーカーの会社員でもあり、リーマンパッカーでもある。
 
ブログMiracle Journey
http://ameblo.jp/macha0625/

高校時代を発端に二十歳すぎくらいまで、自分を好きになれず、大事にすることができず、スッキリしない日々を送っていた。
大学時代前半までは、ストレスフルな環境もあっていつも体調がすぐれずボロボロだった。
そんな自分と、自分の生きる世界に、疑問を感じることがよくあった。

自分はこのままじゃいけない、そう初めて真剣に意識し始めたのが19歳の頃。
そこからジタバタしつつも、数年後にはまずボロボロにしてしまった身体を立て直そうと考え始めた。

またそれは、ちょうど大学で東洋医学の研究を始めるタイミングと重なり、その考え方に納得。
地球に生きる人にとってあまりに自然で、自分にとっては理にかなっているものだった。

同じころ、世界を旅するようになった。
当時、都会で派手に遊ぶようなこともしてはいたが、元々遺跡に興味があり、自然が好きだったことを思い出し、そういう素直な想いに従うことにしたのだ。

当時の自分にとって旅とは、そのような本能的な欲求を満たすものであり、何より日常で頑張るためのエネルギー補給源となっていった。

気付いたら、妙にすっきりした自分がいた。

疑問だったいろいろなことに、自分なりの答えを見つけた。

ジタバタしはじめてからそこまで、時間にしたら短いかもしれない。ほんの数年のことだけど、とても濃い時期だった。
世界は何も変わらないし、傍から見た自分もほとんど変わってはいなかっただろうけど、自分の中身が大きく変わったのがよく分かった。今ではその前の自分がもう思い出せないほどに。
これでやっと、普通の人くらいにはなれたかなと、当時の私は思ったものだった。

このままじゃいけないと思ったあの頃。自分は、何か人の役に立てるような人になりたい、
自分を頼ってくる人に対して、的確なアドバイスできるような人になりたい、漠然と、そう思っていた。
でも自分があまりに無力で程遠いと感じ、まずは自分からなんとかしようと思ったのだ。
そこから、今に至る「私」が始まったような気がする。


社会人になってからも、仕事がハードだったせいもあり興味は心身の健康にあった。
同時に、もっといろいろな世界を体験したい、刺激を受けたいというもともとの好奇心旺盛さもあり、敢えて会社務めを選んだ。
旅は生活の中心となっていたので、休みの取りにくい仕事という選択肢はなかった。
数えてみると、かれこれ40カ国ほど訪れたようだ。

2009年、100人100旅プロジェクトの立ち上がりのときに参加。
大好きな旅と写真が本になるという魅力と、印税はすべて寄付するという志が気に入った。

執筆者も読者も満足ができ、なおかつ寄付までできるとは誰にとってもデメリットのない、素晴らしい仕組みだと感激。
増刷されないと印税が出ないので、積極的にプロモーション活動を行った。
たくさん売れたことを考えると更にいろんなことが起きそうで、わくわくしてしょうがなかった。

参考
http://www.47news.jp/localnews/yamanashi/2010/04/post_20100427130953.html  
また、100人の仲間がいればそれだけできることや可能性が広がる。それが楽しくて、第一弾の出版以来活動に関わり続けている。


自らの心身健康を模索する中でチベット体操を知り、それによる劇的な変化を体験。
ちょうどニーズがあったので、インストラクターになり人に教えることにもなった。2007年のことだった。

チベット体操インストラクターとしては、朝日カルチャーセンター立川教室での講座に加え、2010年は100人100旅写真展のイベントとして東京と熊本で無料体験会を開催。
また、2010年9月にはTV東京『イキイキ美人サロン』に出演し、タレントに指導。その後、結婚のため講師はお休み中。いずれ再開予定。 

その他、2010年は漢方の軟膏作り教室、天然石アクセサリー作家としての活動等も行っている。
こちらも今後も時間を見つけては行うことになるだろう。
 
自分が望むことを行い、いつも心が充実していると、特に自分から働きかけずとも、
更に楽しくなるようないろいろなことが舞い込んできたりもするものである。



‥‥‥そんな彼女のこれから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。


2月に結婚をして、新しい生活が始まった。3人に1人が癌になるという世の中。自分の父親もそうであったように。
今後は自分だけでなく家族の健康促進・健康維持も課題になってくる。
いろいろな発見を楽しみながら、家庭生活を送ることになるだろう。

ビジネスパーソンとしては今現在ちょっとした岐路に立たされている。
今の仕事はやりがいもあり、生活とのバランスも取りやすいためちょうどいい。
しかし、自分の更なるビジネススキルのアップのためには海外留学や転職も視野に入れるべきだという社長のアドバイスに多少揺れ動いてもいる。
とはいえ、自分のワーク・ライフ・バランスに合った選択をすることになるだろう。
来年の今頃どんな状況か。それは私にもわからない。

ボランティアや慈善活動は、当たり前に行うものだと思っていて、日常生活の中でできる範囲で行ってきたし、今後もできることを見つけては行っていく。
20代前半までは自分のことで手いっぱいだったように思うがもう世の中のことに無関心でいたくはないし、いられない。

そのような確固たるモチベーションを持つようになったきっかけとして、今思えば5年前に突然父親が他界したことも一つの転機だったのかもしれない。
それをきっかけとして広がった世界・交友関係もある。


関係ないようで、物事はすべて繋がっている。


間違いなくこれからも自分にとって新しい分野へのチャレンジもするだろうし、少しずつ視野やスキルを広げていくことは変わりない。

それらの経験が結果的に誰かの何かの役に立つのなら本望であるし、基本的にはそのことを念頭に置き物事を展開させていくスタンスも昔から変わらない。


大きなことがしたいわけではない。

自分と、少なくとも自分と関わる身近な人達が、いつも心から笑っていられるようでありたい。

その範囲が少しでも広がっていくなら、それも嬉しいことである。


100人100旅第一弾 P244『自分の感覚を信じること』(特に終盤)に、ざっくりと伝えたいことを書いている。

今ある現実は自分が創っている。

どんな現実を創れるのか、それは自分の「状態」が鍵となる。

「心・身体・意識の状態」である。それらは別物のようで影響し合っている。

自分の心や意識が変わると見える世界もがらっと変わるが、それ以上に、「起こる出来事」まで変わってくる。

そうやってコントロールしながらおもしろおかしく生きることは、とても楽しい。

偶然などはなく、そうやって必然的に物事は起こるのだとある時気付かされた。


すべての出来事に、意味があるのだということを。


少なくとも自分にとっては、そうなのだということを。

運命だからと受け入れ、中には諦めながら生きるのもそれはそれだと思うし、そうせざるを得ないこともあるかもしれない。

でも、せっかくだから意図して変えてみよう、創ってみよう。

何かのせいにすることをやめる強さは必要かもしれない。

もちろん、自分で行動することは必要かもしれない。

でも、ますます人生が楽しく充実したものになるはずだから。

いざという時の底力や、安定した「状態」を保つためには、心身の健康に直結する日常をどう送るかで変わってくる。


食事や呼吸や睡眠を大事に、心身を冷やさない生活を。


心や身体を縛ることなく、ナチュラルに。


いつも自分の心の声を聞き、それに従う。


わくわくするような気分と、直感に従う。


どうしてそんなにいつも元気なのか、どうしてそんなにパワフルなのかとよく聞かれる。
確かに、誰か元気のない人に分けてあげたいほどに、エネルギーが溢れてくるのが自分でも分かるし
分けてあげたいほど幸せを感じて生きている。

それは、健康に産み健康に育ててくれた親のおかげもあるし、更なるそういう状態をつくり保つために、自分にとって何が必要なのか模索してきた結果でもある。

そして、そういう状態でいられることに、いつも感謝しているからでもある。

Masako Furuya



‥‥彼女との出会いは、今から半年と少し前の2010年9月。第4弾100人100旅プロジェクトの初めての顔合わせのイベントの際にお会いしたことがきっかけでした。
そのときはもちろん誰一人知り合いがいない状況で、100人100旅というものも何なのかよく分かっていなかったこともあり、
その日は「100人100旅」というものに詳しく関わっていそうな人を中心にお話させてもらったのをよく覚えています。
そんな詳しく関わっていそうな「人」の中でも特に優しく温かく接してくれたのは、紛れもなく彼女でした。
そしてまた素敵な雰囲気を持った「人」だというのも当時から感じていました。

それとは別に100旅のあの方とも何か特別なもので繋がっている雰囲気も感じていました。それはその後また知ることとなるのですが、その「人」の話はまた次の機会に。


今回、こういった機会があり、初めて知ることも多々あり、その幅広い経験や、活動にはただただ驚きで、
そしてまたその素敵な雰囲気の「核」となり「繋がり」となるモノがなんだか伝わってきました。


「今」。それはあの時から見れば8ヶ月後の「みらい」。

この100旅というものに出会い、自分が苦手だと不得意だと思っていたことと向き合い動いていくことで、あの時想像していた「みらい」とは大きく形を変え、

そうして新たな自分とも出会えた「今」。

この「場」でこういった「形」で繋がるなんて想像すらできなかった「みらい」も、「今」ここに確かに存在している。



「関係ないようで物事は全て繋がっている。」


「すべての出来事に意味がある。」


彼女が言っているように、物事が全て繋がっていて、そしてそのすべての出来事に意味があるのなら、この100旅というモノと、そして出会えた人達との「繋がり」の先に何があるのか、

それが知りたくてたまらない、と同時にその「みらい」が楽しみでワクワクしている自分が「今」ここにいる。


だから、僕も「わくわくするような気分」と「直感」に従い、「みらい」へと一歩ずつ歩んでいきます。


楽しみでワクワクする「みらい」に出会うために。


そうやって「今」と「みらい」を繋いでいけるように。

2011年4月20日水曜日

Keep smilling -笑顔は自分を幸せに、自分の幸せが満ちたとき、また誰かを幸せにする-





中居加緒里。

アクセサリー「Spica Colorido」。

青森県八戸市に中居家の4女として誕生。
上の3人の姉たちとはちょっと違った異色を放つ4女。


中学時代。はちゃめちゃにやんちゃな時期を過ごし、親に大迷惑をかける問題児。ただ、マザーテレサに刺激を受け、必死に手紙を英語で書いたり、ボランティア活動に興味を持ち始める。

高校時代。大好きな英語漬けの毎日で、まじめに学校に通う。この頃から、海外の生活が大好きになる。
高校時代に応募した、大学主催の国際協力小論文コンテストで全国2位に。

大学推薦入学、東京へ上京。

民族系のアクセサリー集めの趣味から、作ることに興味が移り、東京でもアトリエに通うようになる。
いろんな文化を見たい。旅に出たい。
それから、また海外に飛ぶことを決意。目指すはオーストラリア。
そうだ、英語をマスターすることと、自分なりにアクセサリーの勉強をしようと。渡豪。



‥‥そんなアクセサリー作りに魅せられた彼女。そこに至るきっかけと、「今」についてこう語ってくれました。


「実は、大学時代に、アメリカ留学で、救急車で運ばれて、体調不良の強制帰国になったんだ。
それで、悔しくて悔しくて、誰にも会いたくなくて、一時期は本当に外に出れなくもなった。
でも、やっぱり「英語」はあたしにとって、あきらめきれない夢だった。
不慣れな英語で書いたマザーテレサへの手紙。
彼女に約束した、貧しい人たちを助けたいという想い。
それをいつかちゃんとした行動にするために、どうしてもあきらめてはいけない夢。

もともと、好きなものが見事に繋がって、今、海外に居る。
英語も、異文化も、アクセサリー作りも・・・・
アクセサリーを通して、異文化を知る。その土地にあった、それぞれの色合いや素材が、文化を伝えてくれる。

自分がいつかボランティアをしたいといったときに、何ができるか。20代前半の時にはその答えが出なかった。
あたしに何ができるのかな。でも、何かしたい。ただ、気持ちだけが焦り。何をすればいいんだろう。ただ、焦るばかりでどうしていいか道に迷った。


そんなときに、ふとしたきっかけで、シルバーアクセサリーの教室に通うようになり、ビーズ教室にも通い始め、自分でアクセサリーを作る趣味を見つけた。

好きなことに没頭する時間。何よりも幸せな時間。

気づいたら、もう6年間も自分の好きなことを続けていた。

これだ!自分にできることって。
それは、アクセサリー作りを教えること。そして、いろんな国でその土地の伝統のアクセサリーを学ぶこと。

今は、アクセサリーとは全く無縁の語学学校で働いている。気づいたらもう4年勤務。

20代前半にあったあの焦りは今は全くない。

夢はあきらめない限りは、逃げないから。

自分が掴もうと思ったら、掴めに行けるから。

そのおかげで、ゆっくりと仕事をして、着実に自分に英語のスキルをつけられた気がする。
完璧じゃなくてもいい。ただ、困らないくらい、相手にちゃんとした自分の意思を伝えられるようになった。
マーケット調査などの15枚のレポートも仕上げられるくらいになった。きっと、今これで海外にボランティアに行ってきますと言っても、英語に対して抱いていた不安感はなくなった。

そしてアクセサリー作りの知識も増えて、日本とは違った色合いや素材を楽しみ、文化と文化の混ざり合いをアクセサリーで表現することが本当に楽しくて仕方がない。
いろんな文化が混ざり合ったシドニーは、本当にいい勉強になることが回りにごろごろある。
たくさんの友達たちのおかげで、口コミで広がって、あたしのアクセサリー、スピカコロリドを買いたいと言ってくれる人たちも増えてきた。

本当に人と人の繋がりはありがたいです。」





‥そんな彼女のこれから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。




「あたし、興味があるものが耐えないんです。

これから、新たな世界へ旅に出ます。そして、自分の夢の一つをまず叶えます。自分ができることを、また新たな土地でする。
ボランティアをして、そして、アクセサリーの勉強をする。

旅人食堂みたいな、そんな、旅人たちが集まるようなお店も持ちたい。
未来ある子供たちに、世界の状況を伝えるようなワークショップもしたい。
そして、蓄えたアクセサリー作りの知識を、いろんな人に伝えたい。

できる範囲で、自分が今立ててるこの3つの目標。
すべては、新たな世界への旅からまた始まります。

常にあたしには目標が必要なんです。それがあたしを動かすエネルギー。


「人生は1回だから、思いっきり楽しめ。」

そう背中を押してくれる両親がいるから、あたしは好きなことをしていられるんだなと本当に感謝してる。
やりたいことが尽きない。
はたから見たら、定まらないと言われるかもしれないけど、何歳になっても、いろんなことにチャレンジできる、そんなフットワークの軽い人でいたいと思います。

あたし、元気が取り柄だから、自分がこうしていろんなことにチャレンジすることで、
みんなに伝えられたらいいなーと思います。



あきらめないこと。

自分で自分を褒めてあげること。

強くあること。


そして、ありがとうと人に感謝すること。」

Kaori Nakai



‥彼女との出会いは僕が23の頃。AUSでのワーキングホリデーの生活も終わりに近づいた春のことでした。
共通の友人を通して知り合いました。
今でもよく覚えていること。かおりさんを含め、周りの人たちはみんな本当に優しくて温かかった、ということ。
ちょうどあのときは色々な出来事があり、当初の予定とは変わりシドニーへ舞い戻る形となり、心がとても不安定だった中で、その温かさに癒され、居心地の良さを感じていました。
だからきっと3年経った今も、この胸に確かに存在しているんだと感じます。

どうして人に優しく、温かく接することが出来るんだろう、と当時は不思議に思っていましたが、そこには「マザーテレサ」への想いがあったんですね。
こうやって今、初めて気付くことができました。

元気に、あきらめず、強く、自分の道を。
そしてまず自分が「笑顔」に「幸せ」に。
他の誰でもない「自分」のために。

そこから生まれる「人」のためには、その「人」にとって、心からの「喜び」や「癒し」「力」そしてそれが最高の「笑顔」となる。

これから彼女の歩いていく「道」は最高の「笑顔」の「人」で溢れる「道」へと繋がっていくのではないでしょうか、きっと。


多くの人が彼女と出会い、最高の「笑顔」が生まれていきますように。


そしてその「笑顔」の繋がりがどこまでも続いていきますように。



僕もまた多くの人に与えられた優しさや温かさで、あの頃よりも少しは優しく、温かい人になれたのかな。


そして自分自身もまた「優しさ」や「温かさ」「笑顔」を人に与えていけるように。


最高の「笑顔」の「人」で溢れる「道」を歩んでいけるように。

2011年4月16日土曜日

男はね、初めから男なわけじゃないとよ。転げまわって、ぶつかって、やっと男になれるとよ。


木下雄大。

喜多屋酒造、営業兼利き酒師。現在NY在住。

1983年11月26日。
福岡県八女市の酒蔵 喜多屋酒造の分家の次男坊として誕生。
小学校のとき逆上がりができなくて、泣きながら母ちゃんと練習をしたのが一番の思い出。

中学時代。中学時代はバスケットボール部で青春の汗を垂れ流し、トレードマークの坊主頭はこの頃から。

高校時代。友達がカナダに留学。福岡空港から泣きながら見送った時、海外へ行くという選択肢が芽生える、と同時に自分も、漠然と将来は海外へ行きたいと思い始める。

大学時代。心理学を学ぶ。ソフトボール部に入部し、酒を飲み、バイトをし友人達と遊びっぱなしの楽しさ溢れる大学生活。



実家が造り酒屋。喜多屋の営業をしている父のかっこ良さに影響され、また友人に影響され、「今」に至る彼。
大学でのこの道を選ぶことになった一つのきっかけから、今に至るまでの「繋がり」までを彼はこう語ってくれました。



「友達が世界一周をして帰ってきた。その体験談はすばらしく刺激的であった。海外へ向けられた願望が再び燃え上がった。

喜多屋酒造の隠し玉、秘密兵器。英語をたくみに操る海外営業のエキスパート・・・


カッコよか!


しかし英語力は何とも言えぬ。TOEIC300点くらいであった。海外へ行って喜多屋酒造の秘密兵器になりたい。秘密じゃなくていいが、修行したい。ということを親父に話すと、
「ほっ!アジア進出しようって考えてたから、ちょうどよか。シンガポールとか行ってみらんか?」と許しを得た。

大学を卒業し、5月にシンガポールへ出発。まずは、英語である。学生寮に入り、英語学校へ入学。先生はアメリカ人のエリック、Mrビーンにそっくりだ。何を言ってるかさっぱりわからん。
学生寮ではタイ人やベトナム人、中国人、ヨーロッパ、アジア諸国から様々なカルチャーを持った学生が集まる。モンゴル人が100人くらい入寮したときもあった。毎日、一緒にバスケをしたり、クラブへ行ったり映画観たり。
3ヵ月後退寮。寮で知り合った友人達(タイ、ベトナム、インドネシア、中国)と一緒にルームシェアして生活。3つの部屋を10人で使用していた。
ハプニングの毎日である。冷蔵庫のケーキが食べられ、私のビールは冷凍庫でカチンコチンになってたりする。
異文化が混ざり合う。
エアコンが大好きなあいつらは家に帰ると16度に設定。常夏のシンガポールはすごく寒かった・・・。その頃には英語を普通に使い始める。

習うより慣れろだ。

学校には9ヶ月通った。TOEICの練習では800点くらい。予想以上に伸びている。練習すればできるようになるもんである。長い休みはアジア旅行に使った。ベトナム、タイ、ミャンマーへ。

仕事を探しはじめる。日本食レストランに就職が決まったがビザがおりない。ビザなしでの滞在はできぬため、マレーシアとシンガポールを行ったり来たり。怪しまれた私は、いかついインド人に囲まれ別室に連れて行かれ日本に一度帰りなさい。と説教され泣く泣く帰国。実家で焼酎を作ったり、日本の酒蔵を見学してまわったり。

4ヵ月後めでたくビザがおり、またシンガポールへ。
ポジションは利き酒師。ソムリエのような仕事である。
3年半働く。そろそろ次のステップへ行こうと思い。アメリカへ行くことが決定。その前に地元の友達と2人でタイとインド旅行。ゾウに乗ったり、ガンジス川で沐浴したり、食中毒でやばいと思ったのはタイのリゾートにいたとき。スクーバの免許を取得して帰国。

そして渡米。
お酒を日本食レストランなどに配達したり営業したりする仕事。
アメリカで一人暮らし。日本食レストランや寿司バーなどに営業に行き、お酒を勧めてる。研修中でお金もないので、外に飲みにも行けず、ハーレムで買ったブルースのCDを聴きながら、家で焼酎を飲む。
近所の子供とバスケットボールをして運動しておる。」




‥そんな彼の、これから「目指すもの」「夢」そして「伝えたいこと」とは。


「お酒の専門家として、ニューヨーク・タイムスから取材を受けること。
そして喜多屋の前掛けをして海外を飛び回る営業マン。

どうにかなると思うのではなく、俺がどうにかしてやろう。という気持ちを持つこと。

そのためにどうしてやろうか?どうなったら楽しいか?を考えるということ。

ワクワクしたほうが絶対に良い。楽しんだもん勝ち。英語バリバリの営業マンってカッコいいやろ?」



‥彼との出会いは僕がまだ大学生の頃。二つほど部屋が隣の人と彼は仲が良く、よく外の駐車場でキャッチボールをしていたのを横目で眺めてました。
学年も違えば、ゼミも同じわけでもなく、特に接点もなくて関わりはなかったのだけれど、何がきっかけで話しだしたかは思い出せません。

ただ面白い人だった。そして九州特有の話し方と大らかさと温かさがあった。きっとそこに惹かれたんだと思います。

彼が就職活動を辞めこの道を選んだこと。無理だとか現実的ではないって「周りの友達ほとんどに反対されたとよ」、と嘆いていたこと、
そして「でもお前は応援してくれて、後押してくれて、本当に嬉しかった。」と言ってくれたこと。この言葉をもらって本当に嬉しかったのは僕の方でした。今でも覚えてますか?


近くの誰かが「何かしたい」と動こうとしたときに、

「失敗するリスクを防ぐ」ことよりも、仮に失敗したとしても「失敗した後、支えとなり力となる。」

ことの方が傍にいる人のすべきことだと思ったから。
その気持ちは、数年経った今も変わらずこの胸にあります。

だから今、こんなにカズさんが輝いているのが本当に嬉しくて堪らないんです。


思い返せばあの頃。一つ上の方たちとは本当に親しくさせてもらっていて、人生で初めて人と離れるということを心から寂しく思い、
だから卒業していったその春に八女の実家まで遊びに行かせてもらいましたね。
あの数日は本当に楽しかった、そしてあのときもまた桜が咲き誇り綺麗なときでした。

あの頃が最初で最後の「人」と離れるということが悲しくて仕方がない「寂しさ」を覚えたとき。

今はもう「人」と離れたとしても、「会いたい人」「会うべき人」とはまた必ず「会う」し「会える」ということ、たくさんの人たちに教えてもらって、またそう信じています。

シンガポール、遊びに行くと言っていたのに行かなくて本当にごめんなさい。だからニューヨークは必ず行きます。

僕もカズさんに負けないように、あの頃よりも成長した姿で、輝いて、胸を張って、




そして会いに行きます。









「カズ・・・アメリカン・ドリームぜ。早く俺を楽にさせろ。」
そう真顔で言う親父を尊敬しておる。

Kazuhiro Kinoshita

2011年4月12日火曜日

桜の咲く頃に-サクラの花に想いを込めて-


佐藤 峻。

現料理人。桜人。


桜。

日本を代表する花。

平和も意味する花。

戦争で対戦国に送られた木・・・桜の木。 

染色家志村ふくみは綺麗なピンク色を彩る。

それは桜から開花の前の木の樹脂を取り、そこから美しいピンク色が染めわたる、あのゴツゴツした部分から。

桜は木全体でピンクになろうとしていた、ということ。 

木全体で頑張って花だけがピンク色の花を咲かせる、ということ。  


努力もきっとそんなもの。 
目に見えるのはほんの少し。 でもそれが人の心に響き、感動し、社会を動かす。
有名人達も目に触れるのは、彼らのほんの一部分。
ほんのひとかけらの花びらのために全身全霊をかける。
だからこそ美しい。
見えないものが見えるものを支えている。

桜=PASSION。

絶対に「桜」咲かせます。

Shun.


現在オーストラリアで料理人として激動の日々を過ごしています。

何ヶ月も何ヶ月も休まずに、一日中朝から晩まで働く日々。
過度のストレスにより激痩せしたことも、命とも言える右手の疲労骨折が生じたことも、心身共に健康でありたければ今の仕事を辞めろ、と医師に宣告されたこともあった、そんな日々。
ここには書ききれないほどの、この3~4年に及ぶオーストラリア生活での中で、たくさんの「苦しみ」や「悩み」「痛み」が、彼にはありました。

超特急で走り続ける彼。その彼をそこまで駆り立てるものは何なのか。




これは過去から今へと繋がる物語。そして広い世界でたった一つの物語。

その物語と、彼の「想い」を語ってくれました。



「高校まで過ごした仙台の町。

「誰よりもでかくなる。」昔からの自分に対しての言葉。

本当は美容師、もしくはファション関係、芸能関係がやりたかったけれど、 自分の親父が料理人だから料理を始めた。でも一生料理人で終わらせるつもりもない。

実は俺、母親の連れ子で今の兄弟は今の親父の子供。俺は本当の親父を知らないんだ。
昔やんちゃだった頃、親父の店を潰すようなことをしてしまったことがある。
そこからかな、仲が悪くなったのは。今では仲は良いんだけどさ。

それで俺の中での親孝行が自分の料理の店を出すこと。俺は本当にあんたの息子なんだぞっていう証拠をみせたいんだ。

今でも親に言うのが俺があんたの店を今度は違う形で潰すからと、笑いながら毎回言うんだよ。

だから自分がやりたいことはその後。 

でもそのためにはすごく努力したんだ。まずは自分の店出さなきゃいけないから中途半端なことはできない。
朝から晩まで料理。周りと同じことをやってたら間に合わないからさ。

経験と情熱だけは人には負けない。
本来の仕事は朝8時から夜12時。これは東京にいた頃もオーストラリアでも一緒で2時間早く行くのは自分の中で当たり前なんだ。それがどのポジョンだろうとも。 東京での生活が一番辛かったかな。

それ以外に魚を勉強したい、と思い、仕事前に朝4時から7時半まで無賃で、魚をさばかせてくださいとお願いして週3日は行った。
別の日は夜は12時に終わってから自分の名前を売るために、飴細工の練習をしに仕事が終わってから別のレストランで始発まで練習をしに行ったりしてた。 
休みの日は病院で点滴うったり他のレストランに研修行ったりで1番しんどかったけど1番笑ってた時期だった。
気付いたら仕事が遊びで、遊びが仕事になってたんだ。

ましてやレストランなんて給料低い中、勉強のためにレストラン食べに行ったりでお金は無くてさ。好きな洋服とかも買えなかったり。

でもね当時は洋服も困らなかったんだ。見てくれてる人は見てくれている。
自然と人が寄ってきてさ、自分が洋服好きだから、そうするとどんどんアパレル関係や業界人と仲良くなっていってたな。

当時はまだ有名じゃなかったモデルやアパレル関係の友人も給料少ないから、俺が休みの日に何か作って練習もかねて持って行ってあげるんだ。そうすると築いた「family」みたいになってて、そこの上のbossとかにも気に入られ、新作会とかさ、呼ばれたり買い物も全部40%offだったりサンプルを無料でもらったりしてさ。

そのときからかな。「人間やることやってれば人は見てる」、という言葉を知ったのは。
だから「料理の鉄人」とかも出れたり、漫画家「おいしんぼ」雁屋さんと食事もできるようになったり業界人達とかと会えたりできるようになったかな。


「人生は 4回ある。」ココ・シャネル。 

自分は5回ある。
今は2回目。料理だけでは終わらない。ちゃんと全部情熱をもってやる。

「夢」っていろんな人に聞かれるんだ。でも俺って「夢」はない。
それは俺の中で現実だから。絶対にやることだから。「夢」ではないんだ。

自分の店を出す。親父の店をつぶす。自分のブランドを持つ。アトリエ。会社。これ全部現実。
だから夢はない。今の自分は昔思ってた自分だから。だから人生面白いんだ。


情熱を持ち、やることやってれば人は必ず見ている。  


「夢を叶えるのがわが人生」  と書きなぐった20歳の時。 

『歴史に名を残す男になるのだ』と、普通の人生とは決別し、諦めることを諦めたあの日。 

そのときに入れた初の墨、Bad My Way= 狂った道。自分の道。 

決めたコトは何があろうと、必ずやり抜く。こうすると決めたら、突っ走る。

誰よりも努力し、誰よりも大きな夢を抱き、誰が何と言おうと諦めず、

誰よりも前に前に進んでいく。

明日のために 来月のために 来年のために 10年後のために・・・」



彼との出会いは2007年の夏。オーストラリア、シドニーにて。
一つ屋根の下どころか、同じ部屋の下でフランス人のDavidと3人でのシェア、シェアメイトでした。

初めて会った日。俺が初めて入居した日。
夜も遅かったけれど、人なつっこく話かけてくれて、PCを見ながら話してたらオーナーに怒られたっけ。今でもはっきり覚えています。

毎日毎日、朝も早く出かけ、夜遅く帰ってくる。
シティど真ん中のタワーの部屋のベランダでいっぱい話をし、酒を交わし、見た目に似合わずビリヤードが本当に下手だったこと、今ではもう上手くなったのか?あとここでは言えないようなこともあったっけ。

なんでだろう、数年経った今でもあの頃の日々は鮮明に覚えているんだ。
本当に楽しかったんだ。

26年間。その中のたった1ヶ月。

自分の中で今も輝いている1ヶ月。そしてきっとこれからも。

まだ何が大切かも、自分が何がしたいのかもよく分からなかったあの頃。
時を経て少しずつ分かってきた気がするよ、成長が遅いと怒られるかな。

多くの人と繋がりがある中、一番「頑張れ」という言葉を言えない「人」。
頑張らなきゃいけないのは俺の方だから。

いつか会う、そのときにまた胸を張って会えるように。


長い間、ずっとどうしてそんなに「体」や「心」をこわしてもなお、走り続けていられるのか、そして走り続けるのか、俺にはどうしても分からなかった。

でも今ようやく分かった気がします。

「自分」のために。そこに「人」のためへの「想い」が詰まれば詰まるほど「人」ってこんなに強くなれるんだって。

それが「力」となり、それが本当の「強さ」の意味なら俺も「強く」生きていける、きっと。



日本では今きれいな桜が咲き誇っています。人々の心を桜色に温かく、そして輝かせるように。


その「情熱」の「桜」がたくさんのたくさんの人の心に響き、感動を与え、その「心」にもまた綺麗な桜が咲きますように。


その周りにもまた、綺麗に輝く「桜」で咲き誇りますように。



人々の心にずっと咲き続ける桜のように。いつまでも。




Dear Family

俺はいろんな国、もちろん日本の友にも 貸しがある。相談乗ったりしてあげたりアドバイスしてあげたり、俺はそのたびに言うんだ。いくら小さな貸しでもちゃんと返せ,と。  
それは相手がどこの国に居ようと俺が出した店には最低1回食べに来いと。俺は1店舗目は仙台で出すからさ!! 

今回自分の友達がphotobookを出すことになりました。from NYです。この売り上げは全部寄付にまわり、このphotobookも被災地に届けられます。

これは僕の家族が家族に向けての言葉です。 

FAMILY to FAMILY.... pray 4 japan

もしよければ協力してください。どの写真が使われるかわかりませんが最低でも2000枚は欲しいそうです。

条件として最高の表情で!!相手に伝わるようメッセージを!!

わかるよね??絶対に下向いちゃダメなんだよ!!!

写真付きでメールください。shuna3faith@hotmail.com

辛いかもしれないけど 笑ってください。もしあなたAが笑えば周りのBとCも笑います。BとCが笑えばDとEも笑います!

これは感染します。だから下を向かないで笑ってください。


こないだ日本大使館から連絡が来ました。

シドニー領事館 総領事小原様から

"3月11日に発生した地震と津波により甚大な被害を見舞われた日本では、家族を亡くし、友人を亡くし、家や財産をなくした人たちが苦境と悲しみの中で懸命に生き抜こうとされています。
そうした人々に思いを寄せ、手を差し伸べてあげたい。そんな気持ちがここシドニーで広がっています。
このチャリティーディナーもそうした思いを込めた活動です。多くの方々の思いや支援が被災地に届くことを願っています。"

まだ参加できるかわからないけどもし参加できるとしたら、頑張ってきます。

今みんなが日本の事を思っています。だから頑張ってください。

いっぱい笑ってください。たぶん次逢うときはみんなたくましい顔になってると思います。目が違うと思います。 自分もそれに負けないように頑張ります。
ますはいっぱい笑ってください。

plz big smile. just do it   Shun

2011年4月10日日曜日

最後は情熱がモノを言う。



山岡絵奈。

つけ麺屋店長。

広告代理店営業、WEBコンサルティングを経て、現在は飲食事業を主に展開する企業に就く。
この会社には管理本部スタッフとして、営業、人事、新店舗開発、店舗管理として入社。
が、現場のつけ麺屋に人がおらず、気がついたら1店舗の店長に。

広告代理店営業を5年間経験して、その時のお客様が今の会社の社長である。
お客様として色々なビジネスのお話をしている内に、社長に惹かれての転職。
当時はまだ3店舗しかなく、5年で20店舗にしたいというビジョンに共感して「やってやろうじゃん!」と。

現在、つけ麺屋にて、
なんで自分はつけ麺作ってるんだ・・・?とたまに思いつつも、女性であるのにも関わらず、朝から晩まで立ち仕事、重たい寸胴鍋を運ぶ体力仕事により、腕の筋肉が順調に育っている、とのこと。



‥そんな素敵な彼女のこれから目指すもの、夢、そして伝えたいこととは。


「とりあえず、今のお店を全国のお客様に知ってもらいたい!1杯に命かけて作ってるから!!
もっと遠い先の夢は、大好きな地元で小さな喫茶店を開くこと。母親が、コーヒーが好きだから、母親がくつろげる場所を作りたい。ただそれだけ。
そして、人生はどこでどんな出会いがあるか分からないけど、与えられた環境で、自分も自分の周りにいる人もよりプラスな方向へ向かっていけることが本当に幸せなこと。」



‥彼女との出会いは、約1年半ほど前の夏。僕がまだ伊豆のホテルで働いていた頃に夏休みの短期スタッフとして来たことがきっかけでした。
女の子らしい見た目とは裏腹に、活発で行動力のあるところがとても印象的で、毎日を楽しそうに、自分のペースで元気に過ごしていたような、そんな感じをうけました。

「最後は情熱がモノを言う。」彼女の好きな言葉。
社長の「情熱」に惹かれての、きっと想像すらしていなかったであろう、つけ麺屋店長という転職。

どんな正しい「理論」や「理屈」よりも、たった一つの「情熱」が心を激しく揺さぶり、心に響きわたる。

賢い「冷静」さよりも、本当に最後の最後にモノを言うのは、きっと「バカ」でも良い、「情熱」だと。

人生は本当にどこでどんな出会いがあるのか分からない。
何気なく特に大きく変わることなく過ぎていく日々を繰り返していく中で、その出会いがいつ訪れるのか、それは誰にも分からない。
でもそれはもしかしたら、「明日」なのかもしれない。

そう思いながら生きていく毎日は、いつもの日常に、きっともっと鮮やかな「色」が付け足されてキラキラと輝いていくのではないでしょうか。

そしてそのキラキラが、また新たな大きな出会いを呼んできてくれるかもしれない。

なんだかそう思うと毎日、毎日が楽しく思えてなりません。

どこかでそんな出会いが訪れるなら。彼女がそうであったように。


「情熱」をもってキラキラ輝いていることの大切さ、なんだか彼女に改めて感じさせてもらった気がします。

だから明日も鮮やかな「色」で自分を包んで一日過ごせるように。

どこかで出会うはずの素敵な「出会い」のために。





最後に彼女から「お客様に伝えたいこと」「一緒に働くスタッフに伝えたいこと」

「数ある飲食店の中からうちの店を選んで頂いて、わざわざ足を運んで頂ける事に感謝のキモチを伝えたいな。

私、超美味しいラーメンを極めたいっていうキモチよりもサービスを交えて、あったかいキモチになれるお店にしたいっていうキモチのほうが強いから、もしかしたらこの仕事向いてないのかも?もちろん美味しいって言ってもらえたら嬉しいけど、キモチの良い接客のお店だったなって思ってもらえたら幸せだな。

お客様に喜んでほしいから、だからラーメンを極めるんだ。」



「一緒に働く時間は人生のほんの少しの時間だけど、働いてお金をもらうという事ではなく、
働いて、お金以外に得られる大切な事を伝えたいな。誰かの為に、一生懸命働く事は、楽しくて、嬉しくて、幸せなんだよって。

アルバイトって、やっぱり楽して稼げるほうが楽しい。でも、同じ時給でも、一生懸命働いて貰えたお金ってうれしいし、やりがいが生まれる。お客様に、名前を覚えてもらったり、「感じいいね!」って言われたら
絶対うれしい。一緒に働く仲間に、「ありがとう」とか「がんばってるね」って言われたらちょっと恥ずかしいけど絶対にうれしいからさ。」

皆さんに感謝の気持ちを込めて‥‥

Ena Yamaoka

2011年4月6日水曜日

だからあなたが死ぬときは、あなたが笑ってまわりの人が泣くような、そんな人生を送りなさい。



野村実里。

青年海外協力隊員。
現在、中央アジアのキルギス共和国にて、一村一品プロジェクトとともに
村の女性たちとナチュラルハーブ石鹸の開発&販売に携わっている。

小学生の頃からの口癖は「大きくなったら留学する!」。

中学・高校と狂ったようにテニスにはまり、

大学1年の時に行ったハワイで、プロサーファーの夢を追いかける少年と出会い、
「お前にぴったりの本がある。とにかく読め!」と勧められた 高橋歩 の本。

その頃から、外国や旅の魅力に本気でとりつかれ中国に乗り込む事を決意。

中国滞在中も中国国内、周辺国をふらふらさまよい、様々な人間に出会い、自分なりの価値観を見出す。

帰国後、国際商学を学んだ大学を卒業し、大阪本町で、中国人社長と松茸やなまこを売る仕事を始める。

日本社会で3年間働いて、ある程度社会人としての力がついたら協力隊になろうという思いがあったため、迷わず応募。その勢いで合格。



‥彼女との出会いは高校生のときでした。彼女が夢中になっていたテニス。時を同じくして僕もまた同様にテニスに夢中になっていた懐かしいあの頃。
その頃から、持ち前の「明るさ」や「優しさ」。「努力」「根性」「行動力」は他より群を抜いていたように思えます。
そんな彼女が、なぜ青年海外協力隊員になろうと思ったのか。



「色んな国を旅してる中で、旅人は一過性の外国人にしか過ぎず、そこに暮らす人々と交流はできるものの、時間や言葉の制約がある以上、ものすごく深くは関われない。
「学生」や「旅人」という立場ではなく、一週間や一カ月という期間ではなく、2年間ひとつの国にどっぷりつかり、そこの言葉を覚え、文化や歴史を学び、腰を据えて現地の人々と関る「仕事人」として、自分がどこまで通用するのかを知りたかったから。協力隊というのがその時の自分にぴったり当てはまった。



‥現在も活動中の彼女。現在の状況も語ってくれました。



キルギスの東の果て、舗装もされていないガタガタ道をずーーーーーっと進んでいったところに、今の活動先タスマ村がある。

2010年5月赴任。一年間がむしゃらにやってきて、石鹸組織は安定した収入を生み出せるようになった。

お風呂なし、停電はしょっちゅう、井戸水はなせか二日に一回しか出ないという生活。
でも、超シンプルで愛にあふれた生活。
ケンカもいっぱいしたが、いつも自分をほっといてくれない。根にもたない。ケンカしてもすぐケロッと仲直り。超家族想い。
なまけものと見せかけて、実は働き者(女性は特に)。男性はほぼ100%馬に乗れ、すごくかっこええ!
「クダイブユルサ(神様の思し召しがあるならば)」 が口癖。
なんちゃってイスラム教で、酒も飲めば、ブタも食う!
村人との関係はいたって良好。

キルギスで古くから伝わる「伝説の石鹸~シャカルサムン~」の復活も果たし、現在、この失われかけている口承文化を何らかの形として残すべく、奔走している。

キルギスは91年まで旧ソ連の国だったため、公用語においても、母国語であるキルギス語にロシア語が混ざり、キルギス人アイデンティティーが弱く感じられる。
そんな中、シャカルサムンの口承文化の復活により、キルギス人アイデンティティーの強化を図るという目標もある。任期は残り9カ月。



‥そんなキルギスで今もなお奔走している彼女。これから目指すもの、「夢」とは。
そして伝えたい「想い」とは。



開発の世界は協力隊が初めてで、何の基礎知識もなかったが、自分なりに精いっぱい勉強し活動しているつもりだ。
この2年間、がむしゃらにやってきた事は、開発学の観点ではどういう風にとらえられるのか。
開発学というものを体系的に学びたい、また自分がしてきた活動に、学問的な意味づけをしたい、という思いで、「女性と開発学」の修士号取得を目指したいと考えている。

その後は何らかの形で、今までお世話になった国々とつながっていられる仕事に就きたい。

そんな仕事がなければ自分で作る。もちろん結婚して子供も産む!
仕事とママ業、なんとかこなして食っていける方法をこれから考えます!
それはまたその時、仏様が導いてくれるでしょう!


キルギス人に限らず、日本人でも、中国人でも、初めて関わる人のいいところを見つめていきたい。

所詮人間という動物なんやから、悪いところも良いところもあって当然!

じゃぁその人の良いところを見て、その人をどんどん好きになって行こうぜっ!!!!

                         Misato Nomura.



高校を卒業し、早いもので約8年。彼女が帰国する頃には、10年目。

長い年月を経て「変わっていくモノ」そして「変わらないモノ」。そうして今の自分がいる。

8年前。彼女の持っていた「明るさ」や「優しさ」。「努力」「根性」「行動力」は8年経った今も変わらず、むしろ輝きを増していっているように感じます。

きっとそれは「昔」は良かった、と嘆くのではなく、
「今」と一生懸命向き合い、「人生」を楽しんで、
明るい「未来」へと前を向いて一歩一歩、進んでいるからなのではないでしょうか。

あの頃から人一倍笑っていた彼女。
だからきっと「笑顔」もパワーアップして、多くのキルギスの人たちを「笑顔」に変えていっているはずです。
「笑顔」の「繋がり」を。


そんな僕自身も彼女から、この「力」のある明るいメッセージに「笑顔」と「力」をもらえました。

「笑顔」の「力」で僕も彼女のように、

「周り」と「自分自身」を「笑顔」に、


そして明るく前へ進んでいけるように。



最後に彼女から~ネイティブアメリカンの教え~より。



あなたが生まれた時は、


まわりの人は笑って、


あなたは泣いていたでしょう。


だからあなたが死ぬ時は、あなたが笑って、


まわりの人が泣くような


そんな人生を送りなさい。

2011年4月3日日曜日

百聞は一見に如かず-世界と料理に生きる南極料理人の歩む道ー




篠原洋一。

1962年札幌生まれ、高校卒業後板前の世界に入る。

札幌の割烹から20歳で東京の割烹に転勤し数店で修業。



1991年29歳で「第33次南極観測隊」越冬調理隊員で参加。

1993年帰国し客船「飛鳥」と「飛鳥2」に14年乗船、
世界9周して約70カ国200都市を巡る。

2008年47歳で再び「第50次南極観測隊」越冬調理で参加。

2010年帰国後横浜関内吉田町に
クルーズ・トラベル・コミニュケーション・バー「Mirai」
と言うダイニングバーを開店、現在に至る。
HP→http://travelbar-mirai.com/

彼との出会いは、100人100旅本プロジェクト第4弾。
HP→http://tabibana100.com/
地球に恋した旅人たち 大地編に著者として参加されています。

南極に行かれたきっかけは北大の教授さんに、オーロラの話を聞いて どうしても見たくなったそうです。

昨年9月の開店から半年。大震災による飲食店関連への影響により、お店を取り巻く環境はきびしいですが
いろんなイベントをやって乗り切りたいと思い、 その1弾が先日27日に行われた、「南極よもやま話」(毎月一回はやってます) そして4月1日からは「日本の四大客船絵画展」を行います。
これからもイベントをたくさんしてお店を盛り上げていきたいと語る篠原さん。


2009年 6月7日 南極観測隊料理人 篠原洋一として「情熱大陸」にも出演されています。


僕自身、実はこのOAされた回はたまたまテレビで見ていました。
だから初めてお会いしたときも勝手ながらどこかでお会いしたような気がして。



情熱大陸。大陸をまたぎ、自分のありったけの情熱を注ぐ、まさに情熱大陸そのままの生き方。
夢を追い、叶え、自分の道を貫き突き進む人生。
同じ男として「男の生き方」というのを多々学べ教えられ、本当に尊敬できる男の中の男。


今、大震災による「酒」の会の自粛、計画停電による帰宅できるかの心配等により飲食業界が深刻な影響をうけています。

一生懸命、今を「楽しむ」こと。それもまた自分たちにできること、いや自分たちのすべきことなのではないかと個人的に感じます。

震災により亡くなられた方たちへ、自分たちが個々でできることといえば「生きる」ということに一生懸命になるということなのではないでしょうか。「今」も。そして「みらい」も。

このことは今の職場をとおしても身をもって学び感じさせてもらっています。

今、辛い状況下に置かれている方たちに対しても、どんなに頑張っても我が身にならなければ全く同じ気持ちにはなれないのだから、今、自分のすべきことをする、それは一生懸命「楽しむ」ということも決して例外ではないはずです。

一つの個人の「店」が開かれるまで。
そこにはどんな作りモノのテレビドラマや映画よりも「一人」の深い背景と物語がある。
そして大きな「夢」がつまっている。
そんな物語を、一度その「目」で「耳」で感じてきて欲しい。
あたたかな人柄と、強い生き方に触れてきてほしい。


感動を 集めて集え 世界から


篠原さんのこの言葉のように、たくさんの「想い」が集まるような「場」。
きっとMiraiはそんな、受け入れてくれる「温かさ」と次へと向かって送りだしてくれる「刺激」を合わせもった「場」、「Home」のように。


みらいへと 希望をのせて


これを読んでくださった方々が「希望」や「感動」の「想い」をみらいへと届けてくれますように。



僕もまた届けに行かせてもらいます。「夢」と「希望」と。そして素敵な「人」と「笑顔」とともに。

2011年3月25日金曜日

ニシカワサン、カニ食ベ?


李 文義。

中国料理人。

彼との出会いは、2年半と少し前。俺がオーストラリアから帰国した直後、伊豆のホテルで働きだした23歳の頃でした。

もう40も手前。インターシップのような形で中国から日本へ。元々日本語を勉強していたわけではなく、勉強したのは来日の1ヶ月前で。

いつ、何がきっかけで仲良くなったのかは忘れました。初めの頃は日本語の楽しい、嬉しいの意味も分からず、分かる言葉はトマト、魚、寿司、包丁など、料理に関することだけ。英語もできない彼と意思疎通はとても難しく、なんとか分かるように話そうとしたり、身振り手振りで、自分の日本語も片言で話してました。

したい、の「たい」の説明をしたところ、「鯛」と同じことからなぜか、喜び、「たい、たい」を連呼していたのを覚えています。

ニシカワサン、カニ食ベ?
は、西川さんカニ食べる?というお誘いの意味で、一番彼から言われた言葉です。
やたら食べ物を食べ?の誘いは多く、断っても勧めてくる。だから結局折れて食べてました。

文化や国民性の違いで、日本では当たり前、そうするべきだ、という概念は覆され、こっちに対しての配慮がない自己中心的な動きに、たびたび衝突。というかこっちが一方的に怒り、そして向こうは謝らない。そのうちまた話し出す。それを繰り返し。よくもまぁそれでも仲良くできてたもんだと、お互い「人」という面で何か思うところがあったんでしょう。

中国というものに真っ向からぶつかった1年ほどのおかげで、たいていのことは受け入れられるようになりました。

休みが合えば海へ釣りに誘われ、青い空、青い海に釣りに行き、ニシカワサン、ヘタと何度も言われ、
またお手製の中華料理を何度も部屋で食べさせてもらい、莫大な量を作ってくれ、
お腹がいっぱいだと訴えても、まだ食べ?食べ?と勧めてくる。

伊豆で激しく地震が起こり、余震も数日続いたときも、初めこそ怖がっていたものの、
すぐにお気に入りらしい小田和正の歌を陽気に歌う。
意味を知らないまま、「ゆら~ゆら~ゆら~♪」と絶妙なタイミングで歌う。
意味を教えると、喜び、さらに歌う。
今、これを歌っていると不謹慎だと周りから大バッシングをうけるだろうから、歌っていないことを祈ります。

地震と言えば、なぜか部屋で「日本沈没」という映画を共に観ていたときのこと。日本が沈没していってしまう話なんですが、ぽつりと一言。
「ニシカワサン、ダイジョウブネ。」

「何で?」と聞き返すと、

「ワタシ、チュウゴク、イエ、アル。ニシカワサン、ダイジョウブ。」と。

あのときは嬉しかったよ、ほんとに。


実は彼の他にも中国人はあと料理人が2人、日本語の勉強をしている学生が研修で1年交代で6人ほどの入れ替わりもあり、日本人と一緒にいるよりも彼らと一緒にいる方が刺激的だったので、わりと中国まみれだった伊豆のホテルでの生活。

海外に旅に行かれたことのある方は共感して頂けると思いますが、異国の地は大変なことが多く、その中で親切にしてくれたときの嬉しさはこの上なく、その優しさの恩を返す意味でも、日本に来ている外国人には親切にしようと、心がけているところがあって、

だから彼らが何か困っていたら教えたり、話しかけたり、お世話もしたりとしている内に、
他人にはとても無関心でクールな中国の方々ですが、仲間や友達となると一転、情に厚くなんでもしてくれるので、本当に色々とよくしてくれました。

結果、学生たちの自分にとっての弟分、妹分は総勢15名ほど。もうみんな帰国してるのですが、おそらく青島に行けば無一文でもしばらく生きていけるでしょう。

ホテルの息子の、別の料理人の人には、うちのホテルなら何泊でも無料で泊まって良い、そして何かあったら中国の俺のホテルで働けば良いと、誘ってくれ、

先ほどの李さんは2年後、中国に帰ったら家族と中国大陸を旅行するから一緒に行こうと誘ってくれ、お金は一切出さなくて良いよと俺に言ってくれる。


中国に帰ったら、大連で店を出すという彼のお店に、ご飯を食べに行く、というのも俺の一つの夢。


中国。色々言われてますが、本当に彼らはあったかくて良い人たちです。

中国のイメージ。確かに正直あまり良くないし、国民性も自分中心でウルサイ、というところも確かにある気もします。

でも個人的に思うことは、

中国の中の「人」ではなく、その「人」の中に中国がある、この考え方の違いだけな気がします。

国あっての人ではなく、人あっての国。国民性はその人の中の一部。中国人という、国で人を判断するのは本当につまらなく、すべきことではないと。

どこの国でも良い人、悪い人がある。

どんな人でも良いところ、悪いところ、自分にとって好きなところ、嫌いなところがある。

仮に中国の国民性が嫌いでも、その「人」の中の自分にとって嫌いなところの一つに国民性があるだけで、他に好きなところがいっぱいあれば、トータルで「好き」が強ければ、それは自分にとって「好き」な「人」。


そんな中国という文化や習慣、考え方をいっぱいいっぱい教えてくれ、出会えた中国の朋友たちへ、、、
心から、、、真的謝謝。再見。



すぐに会える距離でも会いにいかなかったのは、あたたかくて居心地の良い場に甘えたくなかったからだよ。
この1年は、この地から動かず、見知らぬ土地でただひたすら頑張ろうと心に決めてた。

でももう1年。そろそろ会いに行こうと思う。良いよね?

またハグされるんだろうな、久々だから嬉しいわ。

また青い空に囲まれ青い海を眺めながら釣りをして、釣った魚を料理して食べさせてください。


‥もう一度、、、真的謝謝。

2011年3月22日火曜日

「生」3%-その涙をふいて笑いながらずっとこの地球で暮らしたい-



高市博史。

彼の話は、自分の仲間が綴った「想い」をそのままここに載せさせて頂きます。


‥‥2月24日の日記より。
http://todaysphotophoto.blogspot.com/
前回の日記で紹介したブログ。
実は色々な思いがこめられている。


年末に愛媛に着いて、

仲間の紹介でホテルで働きだした。


そこで一人の青年に出会う。

まだ大学生の、

T君だ。

21歳の車好き。

大学生のその時期ってめっちゃ楽しい時期だと思う。


そんな彼は俺の職場の先輩で、
色々手取り足取り仕事を教えてくれた。

一ヶ月の間だけど、すごくお世話になった。


はたから見れば元気な青年、大学生。

毎日楽しく過ごし、大好きな車を心から楽しんでいる。

笑顔でわかる。

この子、本当に好きなんだなと。

勤務態度も素晴らしくて!!

お客様第一に考えてる。

見習おうとしても、難しいくらい!

凄く尊敬できるし!年下だけど良い先輩だった!!

自分はすぐ横着しますんで・・・


話はとても急で、

勤務二回目の夜中に、

二人でワンセグで録画していた、ぐるナイを見ていると、

急に・・・

なにか思いつめたような顔をして、

そして携帯閉じて笑顔になった。


「どうしたんですか?」

ってなって。

いや、先に話しておきたいことがあると。


と、いいながら自分の人生の生い立ちを話始めた。

聞いていると、

まあ誰にでもあるような。

人を好きになり、葛藤して、そして別れたり。

時にはかけがえのない時間を過ごしたり。

誰にでもある。


そう、

誰にでもあるような・・・


でも、

彼には一つ。


話は去年の夏。

どうやら去年は厄年だったせいか、

色々事件があったらしい。

車で事故ったり、

PC壊れて大事な写真失ったり、

しまいには長い間付き合っていた彼女と別れ。

その辺りから精神的に辛くなったせいか?

胃潰瘍になったらしい。



胃潰瘍のために、それから何度か病院に通うことへ。

ある時、

いきなり、

お医者さんに宣告された。



「T君、ちょっと・・・」


見つかったのはガンだった。


最初は早期発見だと思い。

早く手術を!?対策を!?となって慌てたが、

冷静になり。

いざ手術になって、開いてみると、

もう末期だった。


胃がんの末期。

内臓をつなぐ皮膚?膜?みたいのがあるらしいんだが、

それを伝って転移してしまってて、

手術もできないらしい。


それが去年の8月。

彼はそんな話をいつもお客さんにするような笑顔で俺に話した。


つい笑ってしまった。



それから5ヶ月が過ぎたときに彼に出会った。

あれから1ヵ月。

一昨日入院した。

来月のあたまに皆で香川にうどん食べに行こう!!

って約束したのに。。。



これは会社の仲間以外誰にも言ってなくて。

仲間とはめちゃくちゃ考えた。

毎週やる会議の大半の時間を使って考えた。

今の俺らにできることはないのか??

と・・・

無力さと無知と、

すべて悔やんだ。

でも、

決断した。

悩んでも仕方ない。なら、

俺らが前に進んで楽しく、わくわく、刺激をあたえるのが、

そんなんで生きる事にたいしての力になれたら。

正答なんてないだろう。

けど、一生懸命彼の分まで頑張りたい。


だから、

このブログを作ってみた。
http://todaysphotophoto.blogspot.com/

俺らは人と共にワクワク・ドキドキ・楽しいものを作り上げることをベースに結成したし。

これは会社理念である。

今はヨチヨチ歩きで社会の事とか何もわからないけど、

利益とかどうこうより、

まず人のために、

俺らメンバー五人のできることを毎日最大限やっている。


T君にも毎回俺が夜勤のときに会社の話をしているから、

充分伝わってて、

ホントなら一緒にやりたい!

ってお互い話してて。

あともう少し、時間があれば。



だけど、これからどうなるか正直わからない。

明日ガンセンターにお見舞いに行ってくる。

抗がん剤を使うのを自分で拒否したから、

いつ迎えが訪れるのかわからなくて。

不安になってしまったから、

こうやって日記を書いてしまった。

一昨年自分のおじいちゃんがちょうど今の時期に胃がんで亡くなってるから不安ってのもあるだろう。



話がうまく伝わったか分からないけど、

もし、

彼に対して俺らが何かできるとしたら。

生きた証というと変だけど、

こういう世界もあるんだよ!

元気になったら行こうよ!!

って意味も含めて写真をアップできたらなと。


朝から、
出勤前とかに日記読んで凹ませてすいません。

ただ皆なら助けてくれるかと思いまして。

ぜひとも、

投稿してもらえたらなと思います。

少しでも長く、

そして、たくさん、

皆の気持ちが届けば、

自分をはじめOceansの仲間も喜ぶと思う。

そして暴走して日記を衝動的に書いてすまん。

こちらに投稿アドレス載せます。
aki1030aki.aki1030aki@blogger.com

一日一枚
題名に題名、
写真を添付して(サイズが大きいとダメなときがある)
本文には自分の名前かペンネームを。


もし力になれるのであればお願いします。




‥時は少し過ぎ、3月20日の日記より。

報告。

昨日の朝、

高市くんがお亡くなりになりました。

最後の最後まで戦ったそうです。

運悪く、

夜勤のため今日のお通夜はでれなかったので、

明けでお葬式に参加してこようと思います。


Today's Photo凄く喜んでくれてました。

自分のためにここまでしてくれる人達がいてくれてホント幸せですと。

最後に会ったときに伝えてくれた。

あれから、三週間。

最後にバイト先のみんなで日帰り旅行に行けてよかった。

それが最後の外出で、

最後の思い出になったのかと思うと。

泣けてくる。

まだ実感がわかないけど、

これが現実なんだな。

明日お葬式行ったら直面するんだろうなと。


もうすぐで22歳だったのに。

21歳で逝くなんて、

すげーパンクだよ。

ほんと。


確かに短い人生だったけど、彼なりに楽しんだと思う。



地震でも思ったけど、

人の命って、生きていくのに凄く重要だなと。

当たり前だけど、

こうやって身近な人がいなくなると、

改めて思う。

こうでもしないと意識できないのかもしれない。

それくらいに、

俺にとって震災の死者は遠く感じ、

高市君の死は近くに感じる。

申し訳ない。


もっと、やれることはあったんでは?

と思うのは昔、友人を亡くして以来やめた。


過去の起きたことに対して悔いるのは時間の無駄だから。

俺は前を向いて、考えることにしてる。


関係ないけど、

個人的な人生観をこの機会に語らしてもらう。


学生の頃に、

あるスコットランド人の先生の英会話クラスで、

旅行の話になった。

そこで先生はインドが好きだというので、

ある生徒がなぜですか?と質問した。

すると先生は、

スコットランドに比べて、

インドには想像をつかないくらいの、

100倍のマイナスがあるという。

マイナスというのは、色々なネガティブな現象のことをさす。

しかし、

インドにはスコットランドにいては味わえない、

100倍のプラス。

そう、楽しみや刺激があるという。


なるほどと思い。

それ以来、そういう考え方をするようになった。


その考え方を自分なりに変えたのが、

人の悲しみや痛み・辛さを100倍知ってる人は、

人との繋がりはもちろん、一緒に楽しんだり、素敵なことをしたり、
刺激てきな何かをしたり、その他もろもろ。

とにかく、100倍人生を楽しめるという持論に辿りついた。

でも、

もちろん、

その分、辛い思いもするんだ。

それは因果かもしれんし、等価交換なのかもしれない。

俺はそう思う。

マージャンの神の桜井さんは等価交換を否定してたけど。

俺はある程度、

等価交換だと思っている。

まだ若いからかもしれない。

だから、

いま普通の人、

給料もらって、家族がいて、一日三食食べて、元気に暮らしている人!?

に比べて、

しんどい思いをしているなら、

俺はそれだけの幸せを手に入れる資格みたいのがあると思っている。


でも、そのチャンスを掴むにはとても難しい壁を越えないといけないかもだし、

やはりさらに厳しい道があるんだろうとは思う。



震災のことに触れようと思ったけど。

割愛する。




高市君に会えて良かった。

俺は何もできないから、

彼の分まで一生懸命生きるとする。

俺にはそれくらいしかできないから。

それだけは集中して、

最後まで諦めないで頑張る。

幸い夢も目標も尽きないくらいある。



お葬式で会ったら、

たぶん何もいえないと思うけどさ。


短い間だったけど、

あの綺麗な星空は凄く良い思い出だよ。

あんな綺麗な空と流れ星をたくさん見れたのは久しぶりだった。

たぶん、これから綺麗な空みたら思い出すと思うから。

その時は、また笑顔で現れてきてくれ!

それでは、

おやすみ!


追記
today's photoに参加してくださっている皆様。


世界各国で色々困っている、

困っているというか、

彼みたいに何か力が必要な方々がいるかもしれません。

もし良かったら、

今はまだ小さな種のブログですが、

色々なところへ繋げて生きたいと思いますので、

一緒に盛り上げていってもらえたら幸いです。



‥‥何故これを自分が書いたのか、、、
それは生前、彼はこうも語っていたそうです。「何か、生きた証を残したいな。」って。
だから自分にも何かできることを、と本来であればブログの話もだいぶ前に話はついていたのですが、本当に「生きた証」を記す結果になってしまいました。

このブログを見て誰かが何か感じて、そして何か変わったなら彼の生きた証にほんの少しでも「繋がる」と願いを込めて。

生きられる確率3%、そう宣告されたら、そのとき自分はどう思い、どうするのでしょうか?
3%の確率、ドラマとは違いこれが現実。


最後に生前、彼は本当にHYが大好きだったという話を耳にし、この曲を聞きました。


~絶え間なく光る星達の中、君も一つの星になり、流した涙は潤いを増し
その涙を拭いて笑いながらずっとこの地球で暮らしたい~  HY/涙


今たくさんの悲しい出来事があるけれど、彼らの分まで泣くんじゃなくて、彼らの分まで笑いたい。

輝く星となって見守ってくれているなら、満天の星空に泣き顔じゃなくて笑顔見せたいよな?

だから笑顔でシワが増えていくような、そんな人生を送っていけるよう、「想い」を込めて。

2011年3月5日土曜日

99人右に進むなら、お前は左を進め。


西川 誠一。

陶芸家。

彼との出会いは26年前。
そう、父親です。

厳格で、自分の信念は曲げない方針のもと18で家元を出るまで育ってきました。


夏休み。休みに学校に行くことはない、と登校日を行ったことはありませんでした。

休みは休み。ラジオ体操は行くな、と夏休みのラジオ体操は行ったことがありません。

予防接種なんて必要ない。と学校で予防接種をうけた記憶もありません。


他の人と違うことを強要されているようで、それが幼い頃の自分はただただ嫌で、苦痛でしかありませんでした。


仕事に関しても、何焼とかいう枠に入るのが嫌だからと、自分流を貫き一世一代で立ち上げた陶芸の道。

陶芸一本。営業は全くしない。

割り引きしてくれ、と言われたら、そんなことをするくらいならタダでやると言い、

最近こうゆう焼き方を新しく始めてみたのよ、と陶芸をやって何十年経った今でも、楽しそうに話す、変わった人です。


この家庭環境が他の一般家庭とは違う、特異な環境だと気付いたのはそんなに昔ではありません。

あの頃はこの「家庭」が自分にとっての基準であり、全てだったから。



家はいつも少し見晴らしの良い、高い場所にあって、作業場の窓を開けるといつもそこには素敵な景色が広がっていました。

何時間も何時間もそこに座り、ロクロを回し、

その父親の後ろ姿を眺めながら、大人へと成長していった自分。



「窯」の名前。
今は「東雲窯」、昔は「赤心窯」という名前で陶芸の活動していました。


本当に最近気付いたことがあります。何気なしにずっと耳にしていた「赤心窯」。

ここに全て、父親の「想い」がつまっていたのではないかということに。


真っ赤な情熱を胸に。

成功するかどうかも分からない、一生陶芸で生活できるのかどうかも分からない、だからこそ、自分の胸の真っ赤に燃える情熱を大切にしようと、信じようと、そう思って名をつけたのではないか、と感じます。

よく言っていた言葉。「99人右に進むなら、お前は左へ進め。」


あの頃は、受け入れがたかったこの言葉も、今になってその有難みを感じ始めています。

この道は自分の道。他の顔色や様子を伺って合わせて歩んでいるようでは、自分の本当に望むものも、進むべき道も、信じる道も全て見失ってしまう。

人と違うことを恐れるな。お前の人生、自分の信じる道を突き進めと、それをずっとずっと教えてくれていたように感じます。


この体にはこの人の血が流れています。周りに流されない、信じた道を突き進む、諦めない、確かな「強さ」が。
だからきっと、何があっても「強い」気持ちで乗り越えていける、揺るぎない「強さ」がこの体の中にあるから。

「強さ」の繋がりを感じられるから。


写真は昨年、伊豆のホテルで働いていた頃に、両親を招待し、河津桜を案内していたときの写真です。

あのときのあんなに嬉しそうな顔を、今もずっと忘れられずにいます。



「生」を受けて26年。

時は流れ、「心」も「体」もおかげさまで大きく成長した自分。

その26年間、くる日もくる日もひたすら物を作り続け、

26年経った今も、変わらず景色を眺めながら、ロクロを回している。

あなたのその背中が、僕に本当に人生で大切なことを教えてくれました。


だからしっかり前を向いて、あなたにもらった「強さ」で一歩一歩、この道を信じて歩んでいきます。

2011年2月22日火曜日

人を愛し、人に愛されなさい


神山 まりあ。

2011 ミス・ユニバース・ジャパン ファイナリスト。

ミスユニバースとは、、、ミス・ワールド、ミス・インターナショナルと合わせて世界3大ミスコンテストとも呼ばれ、世界的に知名度の高いミス・コンテストの1つ。

現在、東京で販売の仕事をしており、モデルのお仕事も。
日々、MUJのレッスンで刺激をうけている彼女。

そんな彼女がなぜミスユニバースに参加し、目指し、そして何を「想う」のか。

「ミス・ユニバースへの憧れが第一です。海外での生活を経て、日本人であることの誇りをもてた今、応募に踏み切ることができました。
後悔する前にチャレンジ! の精神が後押ししてくれたのだと思います。
ミス・ユニバースは、その影響力をもってみんなに語りかけることができる、一個人ではできないことを実現できることに意味があります。美しさは、他の能力と同じで、手段の1つ。影響力を持つ人がチャリティー活動を行えば、世界中の人もその活動に注目してくれます。ミス・ユニバースを目指すのは、影響力を手に入れて、その先にあるもっと大きな目的を果たすためです
日々学ぶことは本当に沢山あります。それをどれだけ吸収し、皆様に魅せることができるか……3月30日を楽しみにしていてください。
新しくパワーアップした神山まりあをお見せします! どうぞ応援よろしくお願いいたします。」



ファイナリスト、それだけでも十分凄いことです。

後悔する前にチャレンジ、その一歩のチャレンジがこの今のファイナリストに繋がっている。

この一歩がどこまで大きなものとなるのか、影響力を手に入れ、その先に求める大きな目的とは、、、

それは今後の彼女を追っていって頂ければきっと分かることと思います。


彼女のために。何か少しでも自分ができることを。
そう思い行動した「友人」がいたから今ここに繋がっています。

そんな素敵な「友人」をもった彼女はきっと本当に素敵な人なんだと思います。


神山まりあの大切にしている言葉。


母から学んだ言葉。


人を愛し、人に愛されなさい。 


彼女の過ごす毎日が「愛」に溢れた日々になりますように。


またその「愛」が多くの人に届いていきますように。




ブログ→http://blogs.yahoo.co.jp/muj2011osmk

yahoo beautyさんより3/30 18時まで投票可能です。
http://beauty.yahoo.co.jp/special/muj2011/finalist/

2011年2月19日土曜日

Smile & Go ahead

坂下 緑。


青年海外協力隊として、現在、南太平洋に浮かぶ小さな島国バヌアツ共和国の小学校で音楽を教えています。
途上国のリアルな生活を知りたいという「欲」と、もしその場に行ったら自分は何ができるだろうという「気持ち」とが入り混じりバヌアツへ。 ハエにたかられまくれ、時にテンションの高すぎる友人たちに囲まれ
た日々の生活。
バヌアツ人。知ってますか?
バヌアツ人に質問したら、わからないことでも答えてくれるということ。イコール素直にウソをつくのです。全く悪気はありません。答えなきゃ申し訳ないという、彼らの善意からくるもので。 とにかくHappy、いつも笑っている彼ら。困っている人がいたらもういいだろうってくらい親身になって助けて、家族みんなで協力して、「今を楽しく生きる」っていう力がものすごく強い人たち。

そんなバヌアツ共和国で日々、彼らのために活動している彼女から、今回皆さんにご協力のお願いがあります。

<楽器寄付のお願い>

バヌアツには音楽の教科書がなく、楽器も少ししかない。
国として出版されている教科書もない。もし、学校に楽器が10台しかなければ、紙の鍵盤ハーモニカで練習したり、みんなで順番に使ったりする。しかし、何の楽器もない学校のほうが多い。離島の多くは、音楽=歌を楽しく歌うことだけ。今は、ビンに水を入れて鍵盤代わりにして演奏したり、竹のドラムや、ペットボトルのマラカスなどを使って演奏したりしているけど、もっと楽器があったらいいなあ。みんな音楽が大好き。
もっとたくさん楽器を使って音楽を勉強したい。そこで、みなさんに鍵盤ハーモニカとソプラノリコーダーの寄付のお願いをさせていただきたいと思います。もしみなさんの自宅に眠っている楽器がありましたら、バヌアツの子どもへ寄付してくださるようお願いします。ご協力いただける場合には、鍵盤ハーモニカ、ソプラノリコーダーともに吹き口の部分を洗浄し、ケースに入れた状態で配送してくださるようお願いします。
また、破損が著しく目立つものはご遠慮いただきたいと思います。
みなさん一人ひとりのご協力から、バヌアツの子どもたちに、音楽を通した笑顔をもっともっと与えられたらよいなと思っています。
また、楽器その他の回収、配送作業は友人片岡健太が代行しますので、国内送料はご負担頂き下記までご郵送ください。

〒243-00041
神奈川県厚木市水引2-1-4-江藤ビル1F アジアンコネクション株式会社
片岡健太宛 
TEL/080-5876-0752

近日中に第1弾としてバヌアツへ郵送してもらおうと考えています。
もしも現状ですぐに協力していただけるという方がいましたら、できるだけ早めに片岡まで郵送していただけると助かります。
みなさんのご協力を心からお待ちしています。よろしくお願いします。     
今回、私はみなさんに寄付をお願いしているわけですが、今のバヌアツの現状を見ると、寄付されたものが使われていない、壊れている、なくなってしまっているといったことが数多くあります。バヌアツ人(援助される側)に対して、もらえて嬉しい、でもそれで満足とならないよう、私はみなさんの気持ちをしっかりと彼らに伝えていきます。そして、使用する場所での管理の徹底、継続して使用できるように教員の技術を上げることを日々の活動の中で行っていくよう努めます。また、わたし自身(援助する側)も、今後また何かの形で途上国に対して援助を行う際には、本当に彼らが必要としていることなのか、使用価値のあるものなのかを考えて行動するべきだと強く思いました。
みなさんのご協力を心からお待ちしています。よろしくお願いします。
ブログ→http://profile.ameba.jp/verde42/

そして最後に。彼女のこれからの「想い」とは。
       

笑って過ごす。これからも、今までも‥‥



バヌアツ共和国から    坂下 緑






遠く離れた子どもたちが「笑顔」でいられるために‥

自分に一体何ができるだろうと思うことがあります。自分の無力さを感じることもあります。

そんな中、彼女のような活動している人に本当に、忘れてはいけない「気持ち」、そして「力」を与えてもらっているような気がします。

「人」が一人一人持っている「力」は、決して大きな力ではない、「微力」です。

だけど、「人」と「人」とが繋がっていくことで、それが大きな大きな「力」へと形を変えていく、そう思えてなりません。

この世界中で起こっている様々な問題は、とてつもなく大きすぎて、自分の力ではただただ無力で、何もできない自分が嫌で、向き合うこと、考えることから逃げてしまう、そんな自分もいたりするけれど、

今、友人をとおして「自分」と「彼女」が繋がりました。



ちっぽけな自分にできること。「繋がり」が生まれた場と向き合い、そして「力」になれるよう努めること。それがたとえ、ほんのちいさなことでも。

自分に近い人から、そして「繋がり」のある人から、少しずつ「笑顔」が生まれていくように。



このブログを見てくださったあなたも今、確かに自分をとおして「彼女」と繋がったはずです。

少しでも「彼女」と「友人」と「自分」の「想い」に共感して頂けたなら、ご協力頂ければ幸いです。

そして「自分」から「あなた」へと「想い」を繋げることができたならば嬉しい限りです。



「笑顔」がどこまでも繋がっていきますように。